昭和十八年夏輝く ● 上代光学のこと レントゲン・ジーベック 5cm F1.5のレンズそのものについて探ってみた。 XebecはK. O. L. の製品ブランド名である。 K. O. L. はKajiro Optical Laboratoryの略であって、上代光学研究所のことである。 名字でいくつか読み方があるようだが、上代(かじろ)と読む。 手持ちの文献の中から、 井上光郎さんがお書きになった「写真レンズの夜明け」(注2)を参考に会社の経緯をまとめてみた。
昭和十四年(1939年)七月
昭和十六年(1941年)
昭和十六年後半
昭和十八年(1943年) 千葉県大網白里市の広報誌「大網白里」(注3) に上代斉と弟の上代格のことが掲載されていたので、 当該部分を原文のまま以下に引用させていただいた。
「いわし文化」を知る
東京に出た斎氏は茂原の高橋民之助氏と共に、
「五條光機製作所(ザイカ)」を起業し、
レンズ研磨によりドイツのライカの下請けも行うなど順調に操業しましたが、
やがて戦争となり五條光機は技術院総裁井上匡四郎を以て、
「反射鏡製造の研究」に関し、試験研究の指令を受け軍需産業に従事します。
以上原文のまま。
(注2)写真レンズの夜明け
(注3)広報「大網白里」 ● 上代兄弟を追う
兄の上代 斉(かじろ さい)と弟の上代 格(かじろ かく)。 以下に示す4枚の写真画像は、 すべて森さんが上代家のご遺族から収集した貴重な史料であり、 許可を得てここに掲載させていただくものです。
兄の上代 斉(1900−1996)
上代斉(かじろ さい)。千葉県大網白里の豪家の長男に生まれる。
弟の上代 格(1903-1990)
上代 格(かじろ かく)。千葉県大網白里の豪家の次男に生まれる。
大型写真機と写るこの画像は旧制長生中学卒業後渡独する頃(19歳)の写真。
上代格ベルリン近郊にて(1930年)
オートバイでツーリング行なのだろうか。在独中の上代格。
愛車ハーレーダビットソンと上代格 ● Xebecはジーベック Röntgen Xebec 5cm F1.5。 Xebecは日本語発声では何と読むのか。 このあたりは時と場合、そして気分によって変わるのが日本である。 またそのゆるみかげんがよい。 Xenon。キセノンランプにキセノン原子。 ところがこれがレンズ名になるとクセノンと言う方が多い。 知識人ならびに文化人、そして意識高い系の研究者はゼノンと言っている。 Leitz Xenon 5cm F1.5は「ゼノン5センチ」となる。 ドイツ語読みしたり英語読みしたり。 しかしながら時局歴史的レンズとなると、その時代背景を理解してみる必要がある。 レントゲン(Röntgen)は彫刻の面倒なオー・ウムラウトをきちんと刻印している。 時代は敵性語としての英語を排斥してきた。 時の法律で決まったわけでない。 新聞・雑誌の扇動であるかは未確認であるので言及しないが、 市民はその奇妙な言語体系を支持せざるを得なかった。 野球でストライクは「よ〜し!」ボールは「ダメ〜!」の世界である。 さらには、なんといっても、設計に携わった上代格はドイツ帰りである。 レンズの製造は推定では昭和十八年か昭和十九年。 であるから時局ここでは、同盟国独逸のドイツ語でいくべきだろう。 しかしながら、クセベックと言うのはやめていただきたい。 音の響きが汚いのである。言葉は音の響きを含めて美しくなければならない。 Xebecはゼベックでもなくジーベックなのである。 ちなみにドイツ語ネイティブの方に発声してもらったところ「っイーベッ」だった。 おなじく英語ネイティブの方の読みだと「ザバ」。まああまり厳密に言うのも野暮というもの。 そもそも日本語で表記するところに無理がある。 このあたりは論議の対象ではないので、異議のある方はそのままスルーしていただきたい。 ● 夏の風と避暑地の文学 レンズの時代背景から、少々息の詰まる重たい話題が続いてしまった。 時代は戻り現代。 レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の元気な姿をお伝えしたい。 避暑地。文学の発生はレントゲン・ジーベック 5cm F1.5の夏の風。 夏の日々。炎天下を歩くのもよし、木陰で冷たい飲み物も至福である。 昭和の夏だったらなお素敵だ。みどり色のガラス瓶に入ったサイダーなら装置となる。 現代に時間軸を戻したつもりだが、昭和十余年の空気となった。 存在するのは解釈だけなのだろうか。事実は存在しないと言いながらレンズは存在する。 これもレンズの意識である。
木々揺らす風の音聴け夏姿 じじつは存在しない存在するのは解釈だけだ 設えは室町時代末期の「花文唐草」 ● 長いあとがき 本コンテンツは2017年2月に新規に製作したものです。 ニッコールレンズのお話ではありません。 私は日本光学製X線間接撮影装置用に専用設計された戦後版のレグノニッコールの研究を進めるために、 現物を収集していました。 しかしながら、とにかくモノが存在していない。 いろいろと探している間に、いくつかのレントゲン装置用のレンズが必然的に集まりました。 古い精機光学から新しいキヤノンもの、おなじみのコーワ、そして名門はドイツのローデンストック。 このあたりは数が出ているので新旧ともに自然に集まった感があります。 その過程のなかで、上代光学のレントゲン・ジーベック5cm F1.5の存在を知りました。 1989年発行の「クラシックカメラ専科」誌の中にその説明がありました。 いぜんからごく一部の方(日本で数人か)には知られていたようですが、 とにかく幻のレンズです。現物をお持ちの方が極めて少ない。 ところがある時、突然レンズの方から私のところにやってきました。 蒐集家の方からオファーがあったのです。写真装置(カメラ)一式はおまけです。 レンズのみでも、箱一式でも価格は同じと言われましたので、 時代考証用にカメラ一式の形態で蒐集家の方から譲り受けました。 さっそくレンズをデジタル一眼レフに着けて見ました。 いきなりその写りに衝撃を受けました。 それからの数年間は日本の四季との対峙。 春は桜に美酒、霞晴れて。 夏は夕暮れ、ビールに枝豆。 赤トンボの空、秋は黄金の稲田。 柿老いて、そして冬のたのしみを撮影してきました。 レンズが開発された経緯も過酷な時代の話です。 いつかは書きたいとあたためてきましたが、作例の画像ばかりがたくさんたまりました。 昨年は2016年に全面的なサイトの書き直しに順じて、新しいコンテンツの執筆が加速化しました。 その流れのなかで、レントゲン・ジーベック5cm F1.5の物語をまとめることにしました。 エックス線間接撮影装置が日本で誕生した背景については、 ニコンの社史やキヤノンの社史で言及されています。 特に1987年に発行された「キヤノン史」では、精機光学工業の時代、 昭和十四年前後のエックス線間接撮影カメラの開発物語が興味深いものになっています。 内容の紹介は別の機会ということにしたいと思いますが、 昭和十八年に日本光研株式会社が設立された時代背景と、 当時のカメラ技術を理解するのに大いに参考になりました。 毎度ながら、本サイトは読む方のこころの位置によってはポエム丸出しのコンテンツです。 ゆったりと「ああそうなんだ、ふーん」とか 「意味不明でたのしい」と読んでいただける方は幸福です。 どんなに仕事ほか日常でお忙しい日々を送っていても、こころが安定している方です。 「なんじゃこれ、ケッ」と思った方は、どうか休息をおとりください。 ゆるいことを許すのも大人の余裕ではありませんか。 それにしても上代格。 今までほとんどその人物や偉業が一般には知られていませんでしたが、 なんと大正時代にベルリン工科大学に学び、光学修士の学位号を得ていたと知り驚きました。 1本のレンズがご縁で、遠いむかしの、 光学設計技術者の熱い想いに、そして時空を超えて歴史的激動の時代に邂逅することができました。 これには人間の思慮でははかれない不思議なレンズのパワーをかんじました。 画像は資料性を高めるためにクリックすると大き目のサイズで表示するようにしてあります(一部を除く)。 本文よりもあとがきの方が長い。そして手紙においては追伸の方が長い。 それは正しい姿であって、ほんとに言いたいことは、 末尾の世間体から外れた普遍的無意識な数行にあるものなのです。
RED BOOK NIKKOR
私に人生と言えるものがあるなら → では次。最終章にいきましょう。 第 4 章 ニコン Z 6 写真帖 ショートカットはこちらからです。
第 1 章
レントゲンジーベック 5cm F1.5
Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2017, 2020
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