July 2025, Nikon Kenkyukai     3

レンジファインダーニコン

シンクロニコン

ニコン S型にはフラッシュガンがセットされています。 ちょうど 60ワット白熱電球のようなサイズの閃光電球(フラッシュバルブ)が迫力満点。 1951年当時のカメラ雑誌広告から、写真をもとに再現コスプレとなりました。

大型閃光電球

この閃光電球はエジソンの時代に米国で創業された老舗ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション (Westinghouse Electric Corporation, WEC)製。エジソンベース。 「22」の刻印があるので、タイムラグ 22msecの M級閃光電球です。

アサヒカメラの広告 1951年 2月号

ニコンの広告 1951年

この 1951年当時の広告は、「ニコン S型の S の意味は Synchro の頭文字の S である」 を裏付ける重要なエビデンスなのです。 待望のシンクロニコン発売!ニコン S型。もうそのまんまなのです。 「シンクロニコン」とても重要な固有名詞です。 いずれニコンクイズグランプリで出題されますので、よく覚えておきましょう。

オールド・ニッコール

NIKKOR-H·C 5cm F2 1948年

ニコン M 1949年

NIKKOR-S·C 5cm F1.4 1950年

NIKKOR-Q·C 13.5cm F4 1948年

ライカ IIIf と NIKKOR-Q·C 13.5cm F4

ダンカンさんの時代のレンズ(続き)

W-NIKKOR·C 3.5cm F3.5 1950年

NIKKOR-P·C 8cm F2 1949年

NIKKOR-Q·C 13.5cm F4 と NIKKOR-Q·C 13.5cm F3.5

ニコン研究会夏ゼミ

遠くに銀座の柳から蝉しぐれ気分の夏の午後。ペーパーが配布されゼミが始りました。 カメラとレンズの現物を前にして、 ダンカンさん(注)がニコンを使って活躍された時代と日本光学の話が展開されました。

(注)ダンカンさん
デビッド・ダグラス・ダンカン(David Douglas Duncan、1916年 - 2018年)
アメリカの報道写真家の大御所

夏ゼミの様子

時代背景は 1950年 6月に勃発した朝鮮戦争。 その前後の数年間の製品史と出来事。 とうぜん誰もその現場を見て来たわけではありません。 とかく歴史物語は勝手な解釈でメイクストーリーになりがちです。 この資料はすべてニコンの社史から採用した情報をまとめたものであって、 脚色なしですから信頼性は高いのです。

配布資料はこちらです(PDF)→ 
LIFE社の写真家による日本光学の評価

ゼミ長の談話は以下のとおりです。

1950年 6月にダンカン氏がニッコールレンズの優秀さに驚いた時点では、 日本光学が製造したカメラが千数百台、レンズも数千本に過ぎなかったことを思い起こすと、 創業から主に光学兵器を製造した経験と真摯な姿勢が戦後の民生品に受け継がれ、 当初から高性能(レンズ設計技術、カメラの低温対策など)と品質管理に力を入れたことが評価されて、 現在の日本カメラ産業の繁栄のきっかけになったことは感慨深いものです。

ちなみに、主要先端商品の日本の世界シェアと売上額をまとめたグラフを以下に示します。 横軸は日系企業の世界シェアで、デジタルカメラや撮像機器は日本の寡占状態が見て取れます。 市場規模は大きくないのですが。

主要先端商品の日本の世界シェアと売上額(PDF資料)
出典:小澤守(関西大学)、機械系学部教育のあり方を考える、日本機械学会誌 2021年 2月号、P. 8

ベリー・オールド・ニッコール

楽しいゼミが終わって、さて、コレクション・テーブルの上に目を落とすと、 なにやら重厚なオーラを放つ、野武士のような精悍な眼をしたごく小さいレンズがこちらを見ています。 その荘厳な風景はただものではない気配を感じます。

とても小さいレンズ

SUNAYAMA Nikkor 7.5cm F4.5   Nr. 755
Nippon-Kogaku 1932年頃

ベリー・オールド・ニッコール・エンスージアストのみなさまであれば、 この画像を二度見、三度見したはずです。 ニコン四十年史ほか信頼できる基本文献を精査してみて驚きました。 ご承知のとおり、NIKKOR ブランドの商標登録が承認されて、 実際に使われ出したのが 1932年(昭和七年)からでした。

Nikkor 7.5cm F4.5。シリアル番号を示すナンバー記号は No. ではなくドイツ語表記の Nr. となっています。 あきらかに戦前の製品です。しかも、シリアル番号は 755 。 75は捨て番ですから、なんとほぼ試作番号帯の 5番。 まさに重要文化財クラスのレンズなのです。

1921年(大正十年)、光学技術の進んでいたドイツから 8名の技術者たちが招聘されました。 アニターの設計を担当したのが、 設計部数学課主任でドイツ人技術者のハインリッヒ・アハト(Heinrich Acht)でした。 アハトは、アニターのほとんどのレンズ設計を手掛けたといわれています。 アハトの帰国後は、日本人の設計者たちが改良を加えていきました。 アニターからニッコールへ。 日本光学設計部長だった技師・砂山角野が中心に動いたのでした。

40年史の 523ページから 526ページの説明によりますと、 アニター 7.5cm F4.5 と同じ 3群 4枚テッサー型。 軍事用途ではなく一般用写真レンズとして、 ニッコール 7.5cm F4.5 の銘で少量生産されたようです。

SUNAYAMA Nikkor 7.5cm F4.5   Nr. 755
Nippon-Kogaku 1932年頃

サイズ比較のためにシャープペンシルを置いてみました。 このとおりきわめて小さいながら精緻な刻印。 精機光学の写真機用に供給されたレンズと推測しています。 具体的には、セミ判(ブローニー判の半分の 4.5センチ X 6センチ)のセイカ(Seica)。 マミヤシックスIIIに搭載されている事例もあるようですが、 レンズのシリアル番号からみても、精機光学の一般向けカメラである可能性が高いと思います。

この歴史的 Nikkor 7.5cm F4.5 レンズの鮮明な画像は、ウェブ上では全世界初公開となります。 なお記事執筆に際し、当時の日本光学の設計資料ほか製品化情報を直接アクセスしたわけではありません。 製造年の特定はできていません。 よって本画像を公開後に、新たな事実や正確なエビデンスが判明した時点で記事をアップデートしていきます。 識者のご見解を期待します。

記事のご案内

画像の上で左クリックすると、大きいサイズの画像を表示できます。 細部までを確認したい方はどうぞ拡大してご覧ください。

 では次にいきます。   第 4 章  ニコン Z とレンズの話

ショートカットはこちらからです。

第 0 章      トップページ
第 1 章      夏はニコノス
第 2 章      和泉雅子さんとF3
第 3 章      オールド・ニッコール
第 4 章      ニコン Z とレンズの話

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