ウルトラマイクロニッコール専用フィルターのある朝 ● 薄い木箱を持った旅 老舗クラシックリゾートホテルの夏のメインダインニグで、朝からこれはいかがなものか。 これからアメリカンブレックファーストで朝メシだというのに、 テーブルクロスの上にはなにやら薄い上等な造りの木箱が置かれている。 木箱がオープンになると、赤いビロードの内装の上に小さいガラスフィルターが鎮座している。 これが、資料や写真でさえも見ることがない、 ウルトラマイクロニッコール用の専用フィルターなのか。 なぜ夏のリゾートに、時代の半導体製造装置の露光用レンズに取り付ける専用設計フィルターを、 しかも木箱入りのお道具として持って行ったのかは記憶にないが、 まったく役に立たないものを海外旅行先のスーツケースの底から見つけたときの脱力感は誰もが経験しているかもしれない。 たとえば、ワイキキのモアナ・サーフライダーのペントハウス・オーシャン・スイートに到着した朝に、 コタツの赤白布張りの電源コードと対面したらそれは悲劇だろう。 そんな英国式のジョークのような情景を思い浮かべながらホットケーキがサーブされるのを待つ朝はいいものだ。
朝のホットケーキ ● 読み取れる当時のウルトラ命名劇 ホットケーキの話ではなく、ウルトラマイクロニッコール用の専用フィルターの話をしよう。 手持ちの資料をさがしたのだが、その姿写真が掲載された資料(カタログ)は1つしかなかった。 1970年代の初頭に、 日本光学が北米やヨーロッパ向けに印刷したウルトラマイクロニッコールの販促資料である。 ドイツのウリ・コッホ氏からかなり前に送ってもらったものだが、英語版である。 カタログから画像を掲載しよう。 下の画像上をクリックして大きくして見ていただきたい。 興味深いのは、62mmフィルターの刻印が” for Micro-NIKKOR 1:2.8 f=105mm ”となっていることである。 ウルトラマイクロニッコール105mm F2.8は、 1962年に完成したウルトラシリーズで最初に商品化された製品であるが、 フィルター枠にはウルトラが冠されていないことが確認できる。 この話は、レンズ本体、木箱にも言えることであって、 すでにここで言及している 。 図抜けた性能を有するMicro-NIKKORが完成した。 このままの名前では従来製品と差別化できないので、 モノが出来上がった後の土壇場、発売直前にウルトラを冠することが決定した。 レンズ前面の化粧リングには後からUltraを追加彫刻した。 不自然な位置ではあるがまあいいだろう。 収納用の木箱は銘板も印刷済みですでに出来上がっている。 ここはもうUltra無しのMicro-NIKKORでいいんじゃないか。 というような発売直前にウルトラ命名が決まった当時の混乱ぶりが想像できる。
e線用フィルターの説明 ● e線用フィルターの機能 資料には以下のとおり説明が入っている。 ようは、光源としての高圧水銀灯から、露光に最適なe線 (可視域の波長546.074nmのスペクトル線でみどり色の光線) だけを取り出す特殊加工されたガラスフィルターなのである。 1960年代の半導体製造技術ということで理解しておきたい。 フィルターのガラスの色はヒトの眼には淡い蜜柑色に見える。 手持ちのフィルターと色を比べてみたが、 ニコンY48とY52の中間くらいの色合いである。みどり色ではない。
とか書いてあるようだ。
自然界の太陽光線下ではこんな色合い ● 持ち歩ける箱庭 堅い上質な木材(クルミ材らしい)で造られた11.5センチ四方の小箱。 留め金を右にずらすとフタが開き、ビロード張りの空間が見える。 なにやら箱庭のような景色なのだ。 眼の前に展開するのは工業製品である半導体製造装置用フィルターではないことに気が付いた。 景色を吸収し気配に昇華・増幅させる装置であることが判明した。
上質な材料で作られた極め箱(銘入り収納用木箱)
40.5mm NIKKOR JAPAN 白文字 ● ニコンで最も高価なフィルター e線用フィルターの種類と当時の価格を調査してみた。 種類は上に掲げる資料等から、すべてウルトラマイクロニッコール用である。 価格は昭和49年(1974年)6月1日付けのニコン産業用レンズ価格表で確認した。
40.5mmフィルター
62mmフィルター
72mmフィルター
それにしても、なんとも高額なフィルターであった。 この小さい40.5mmフィルターが昭和49年前後の当時で3万円。 なにをもってスケールとするのか難しいところだが、会社員の初任給ベースで考えるとどうもピントが合わない。 物価の優等生タマゴと比べているようなものだ。 会社員の給料とタマゴ10個入りパックの値段のかなしい類似性はここでは議論しない。 首都圏は港区三田の喫茶店のコーヒーが100円、電車(当時は国電)の初乗りが30円、タバコ(ハイライト)が80円。 それらをもってスケールとすると、この当時の3万円は時代感覚的には現在の10万円を超えると思う。 それほど高価だったたった1枚のフィルターを、 上等な造りの木箱に入れて出荷したニコンの技術者の思いは理解できる。 それにしても、72mmフィルター1枚が84,000円とは現代でもあり得ない価格だと思う。 なお、価格表でしか確認できないが、昭和52年(1977年)12月21日付けの価格表によると、 52mmフィルターが存在していた。適合するレンズは50mm F1.8eで、価格は「特注品」となっており時価。 営業さんとのご相談価格ということである。
for Ultra-Micro-NIKKOR 上質の二枚ガラスは厚く色合いは淡い蜜柑色 ここで伊達なポーズをきめる傾奇者 ● 新しいニコン純正の40.5mmフィルターとレンズフード 2011年10月。ちょっと驚いたことがあった。 ニコンから「レンズ交換式アドバンストカメラ」と位置づけされ、 「Nikon 1」という新しいブランドシリーズを付けたデジタルカメラがリリースされた。 製品の紹介、とくにアクセサリーのラインナップを見て、 古いレンジファインダーニコンのファンや、 産業用(工業用)ニッコールレンズのマニヤは喜んだものだ。 なぜならば、アタッチメントサイズが40.5mmのニコン純正ガラスフィルターや、 ニコン純正レンズフード、それにキャップが発売になったからである。 それまでは、オリジナルの40.5mmフィルターやキャップを使っていた。 そもそも、アタッチメントサイズが40.5mmのレンズは、レンジファインダーニコン (ニコンSシリーズ)の時代のものだ。 であるから、オリジナルのそれは、コレクションにするならばともかく、 実用となると貴重品なのでちょっと外に持ち出しにくい。 レンズキャップはすぐに失くすし困ったものだ。 それが新品で、ニコン純正で、お気軽価格で買えるのである。 私もウルトラマイクロニッコール55mm F2を外に持ち出して気軽に使う時には、 Nikon 1用のフィルターを装着しキャップはポケットに入れて持ち歩いている。
40.5mmフィルター MADE IN JAPAN
ニュートラルカラーNCフィルター。つまり透明のレンズプロテクションフィルターだ。
40.5mmレンズキャップ LC-N40.5 ニコン純正の40.5mmレンズキャップである。 キャップ単体だと今まで入手が難しかった。 とくにレンジファインダーニコン用のそれは中古価格でもよい値段が付いている。 それが、新品をカメラ量販店だと実売価格800円程度で買える。 これなら安心して失くせる。 いや、そういう問題ではないが、やはりお気軽価格で入手できるようになったのはありがたい。 できれば MADE IN JAPAN にしてほしかった。価格が2倍であっても。
40.5mmフード すべてMADE IN JAPAN このレンズフード群の登場にはまいった。 何回も言及しているが、レンジファインダーニコン用のそれは中古でも価格が立派である。 撮影行でフードを失くしたら、来た道を辿って探すレベルである。 それがニコン純正の新品で買えるのは、くどいけどありがたい。 左から、40.5mmネジ込み式フード HN-N101、HN-N102、HN-N103。 ● Nikon 1用アクセサリーと時代が邂逅 さて、どんなレンズに新しいNikon 1用アクセサリーを着けようか。 あれこれ試してみるのは、なかなか楽しいものだ。 ウルトラマイクロニッコール55mm F2に、40.5mmのニュートラルカラーNCフィルターを装着してみた。 まったく違和感のない装着感である。
ウルトラマイクロニッコール55mm F2に40.5mmのNCフィルター 下の写真画像に示すとおり、HN-N101は実に変わった形状をしている。 ニコンFの時代にGNニッコール45mm F2.8という薄いレンズ(パンケーキレンズ)があったが、 その専用フードの存在感と方向性が似ている。 使いそうもうないけれど買ってみる。そういうものである。 使い道が非常に限定されたフィルターなので、 一度在庫を作ったらもう生産されないのが歴史の経験である。
ELニッコール50mm F2.8にレンズフードHN-N101 ELニッコール50mm F2.8にレンズフードHN-N101を装着してみた。 なかなかピタリと似合うのではないか。野山に広がるフィールドでの撮影に使いたい。
ニコンのレンズフードHN-N102とHN-N103 HN-N102とHN-N103は40.5mm径のレンズフードであるが、形状はほぼ同じように見える。 ただし、価格に差があることから、材質とか仕上げは異なるようだ。 HN-N102は実売価格で約1600円。HN-N103は実売価格で約2400円。 重量は実測してみたところ、HN-N102は11.0g。HN-N103は11.5gである。 重量はほとんど同じだが、いくぶんHN-N103の方が高級感があり重たくかんじる。 両者をレンズに装着した画像で比べてみよう。 左はCOMニッコール37mm F1.4にHN-N102を装着。 右はELニッコール63mm F3.5にHN-N103を装着してみた。 高品質で信頼のおける証 MADE IN JAPAN がきいている。 ● 40.5mmの話 ところでアタッチメントサイズ(ようするにフィルター径)が40.5mmのニッコールレンズには どんなものがあるのだろうか。 レンジファインダーニコン(ニコンSシリーズ)用のレンズは、 検索すればすぐに分かるのでここでは省略する。 まずはお手軽なところで、引き伸し用レンズのELニッコール。意外と多い。
ELニッコール 40mm F4N 驚くべきことに Cマウントのシネニッコール(16ミリ映画撮影キャメラ用のレンズ)は、 超広角やズーム等ごく一部のレンズを除くとすべてが40.5mmだ。意識的に統一したのだろう。
シネニッコール 10mm F1.8 産業用(工業用)ニッコールレンズにも40.5mmが多い。
ウルトラマイクロニッコール 28mm F1.7e
COMニッコール 37mm F1.4 ● 栃木ニコンのばあい ここまできたらもうあの栃木ニコンにいくしかない。 アタッチメントサイズ(フィルター径)が40.5mmの製品をリストアップしてみた。 (注:2020年現在のリストです)
Nikon Rayfact IL 40mm ほかにも、Nikon Rayfact VF シリーズの各種倍率用が40.5mm径である。 産業界の需要により製品仕様が多種あり変化しているので、 詳細については栃木ニコンのサイトで最新の情報を確認していただきたい。 Nikon Rayfactシリーズにも、 Nikon 1用の40.5mmフィルター、キャップ、フードが使える製品があることを示したかった。 ニコンRayfactコレクターの方々には耳寄りな情報だと思うが、 このあたりの超コアなウルトラマニヤにはすでに承知のことだろう。
ニコンFにELニッコール63mm F3.5 レンズフードHN-N103添え ● フィルター界の大吟醸 1960年代に鮮烈な印象をもってデビューした伝説のウルトラマイクロニッコール。 まさか時代を50年以上経過してから、 ウルトラマイクロニッコール専用のフィルターにキャップが新型で再生産・発売されるとは思わなかった。 さらには3種の本格的40.5mmレンズフードまで。実にありがたいことである。 識者から見れば、すこし勘違い、思い違いをしているかもしれない。でもそれでよいのだ。 しかし「識者」って何者なのだ。 左がNikon 1用のニュートラルカラーNCフィルター。 右がオリジナルのウルトラマイクロニッコール用e線フィルター。 NCフィルターの重量は7.5g。光学ガラスを2枚貼りあわせたe線フィルターは29.0g。 重量比では約4倍。時代に換算した価格比は実に約40倍。 それでも、Nikon 1用のニュートラルカラーNCフィルターはよくできている。
ニコン40.5mm NCフィルターとe線フィルター 最後に本家本元のウルトラマイクロニッコールe線フィルターを ウルトラマイクロニッコール55mm F2に装着し、 秋の稲穂を実写した作例を見ていただきたい。 ようは、淡いオレンジ色フィルターを通してみる緑と黄色の風景である。 画像上をクリックするとすこし大き目の画像が表示されます。 どこか記憶に残っている色調だなと思ったら、 1970年代初頭のコダクローム25のゴージャスで重厚な発色に似ていることに気が付いた。
e線の秋 e線フィルターを通すと、稲穂が黄金色に輝き、重厚な色彩が観測された。 それならばと、ためしに、当家に伝わる金色に光る古い貨幣を、 UMN 55mm F2 にe線フィルターを着けて撮影してみまた。
大きいのが明治二分判金、小さいのが万廷二朱判金というらしい。
どちらも金の品位的にはそこそこだが、e線フィルターを通すと、
金原子に反応して山吹色の黄金に輝くことが観測できた。
原子レベルでよい影響を与えたようである。 金貨とか金製品の撮影に向いている。 ただし、ホンモノ実物より黄金色が大幅に増幅され、輝きはゴージャスな純金そのものになるので、 鑑定書など客観的映像記録用途には避けた方がよろしいかなと思う。
可視域の波長546.074nmのスペクトル線(e線)は山吹色の金原子に反応
渋く光る黄金の感性を引き出す時代の工業用ニッコールレンズとの邂逅 古い1960年代のレンズと専用フィルターが、 まさか現代でこのような使われ方をするとは想像もしなかったことだろう。 それにしても、黄金は山吹色に輝く古い貨幣の大吟醸なパワーには驚いた。 金の持つ普遍の美しさと存在感。古いレンズとの相性もよかったように思える。 ● ニコンミュージアムに登場 まさか出てくるとは思わなかった。2018年は4月のことである。 ニコンミュージアムで企画展「世界最高解像度レンズの系譜 ウルトラマイクロニッコール」 が開催された。 全体像は「 ニコンミュージアムUMN展レポート 」で確認していただきたいが、 なんとウルトラマイクロニッコール用のe線フィルターが展示されたのである。 そのあたりを特別に見ていただきたい。 画像は会期終盤の6月末に再度訪問し、撮影した画像で構成している。
東京・品川 ニコン本社
ニコンミュージアム
企画展「世界最高解像度レンズの系譜 ウルトラマイクロニッコール」
ウルトラマイクロニッコール用 e線フィルターの展示 今回の展示では驚いたことや収穫は多々あったが、 その1つが72mmフィルターの現物の存在が確認できたことである。 72mmフィルターは、本稿の前で述べているとおり 適合するレンズは UMN 125mm F2.8 と UMN 155mm F4 である。 1974年当時の価格は弩級の1枚84,000円。
黒枠の製品版とは異なり、通称、銀枠(白枠)となっていることが興味深い。
展示では刻印が後ろに隠れてしまったが
「
72mm NIKKOR JAPAN
for Ultra-Micro-NIKKOR
」
と揮毫された刻印が銀枠外周に刻まれている。
試作品とのことであった。
銀枠の72mmフィルターは製品版ではなく試作品
黒枠の40.5mmフィルターは製品版
裏表1枚ものであるが資料価値の高い企画展のリーフレット ニコンミュージアムの展示では隠れていたが、 試作品の 72mm e線フィルターの刻印について見てみたい。 製品版では銀枠から黒枠になっているが、黒枠の現物は発見されておらず見たことがない。 ただし当時のカタログに写真が掲載されているので、地球上に存在している可能性はある。
72mm NIKKOR JAPAN の刻印
for Ultra-Micro-NIKKOR の刻印 ● 2021年のあとがき このコンテンツのオリジナルは2016年10月に書いたものです。 最初に出てくるテーブルセッティングの画像は2004年の夏に撮影しましたが、 いつか記事にしようと12年間温めていました。 「Nikon 1」シリーズ用のアクセサリーを紹介しましたが、カメラ本体の終売に続き、 40.5mmネジ込み式フード HN-N101、HN-N102、HN-N103 が店頭在庫のみの販売となったようです。 40.5mmネジ込み式フィルター 40.5NC は早めに買っておくことをおすすめします。
Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2016, 2021
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