拡大撮影装置試作機(1968年) ● 幻のマクロニッコール 文献資料の図版や写真等でその存在を知っていたが、 中古カメラ市場ではもちろんだが博物館でさえもその現物を見たことがなかった。 そんな「幻のマクロニッコール」の話をしたい。 一般に入手できる信頼度の高い資料という条件において、 外観写真と仕様図面について唯一掲載されていたのが 昭和44年(1969年)共立出版発行の「ニコンFニコマートマニュアル」である。 ニコンFの実質的な設計者であった日本光学の堀邦彦氏が監修した文献だ。 206ページから208ページにわたり、外観の写真画像2枚と詳細の図面2枚が掲載されている。 専用レンズは、28mm F1.8、50mm F3.5、80mm F5.6、150mm F9の4本と説明がある。 撮影倍率が1/2.5倍から15倍までをカバーしている。 「ニコンFニコマートマニュアル」から外観写真と図面の画像を以下に引用させていただいた。
図4-33 拡大撮影装置本体とレンズ一式
図4-34 拡大撮影装置本体の図面(横から見た図)
図4-35 拡大撮影装置本体の図面(正面)
図4-36 拡大撮影装置の使用形態
出典 ● ニッコール千夜一夜物語から 株式会社ニコンの佐藤治夫氏が、 ニッコール千夜一夜物語(第25夜)で 「マクロニッコール」について言及されているので紹介したい。 説明部分を以下に原文のまま引用させていただいた。
何度読んでもこの最後の 「高解像で光学系としては究極の姿でした」と力強く言い切る檄文にはガツンとくる。 ● 残っていた幻のマクロニッコール 現物を見ることはないと思っていた。 そもそも現物が存在することさえ知るよしもなかった。 2017年は日本の春。桜花咲く江戸で突然現物が出現した。 2017年の4月4日から同年7月1日にかけて東京・品川のニコンミュージアムで 特別展「カメラ試作機〜開発者たちの思い」が開催された。 全体像は 試作機展レポート を参照いただきたい。
桜吹雪を眺めてニコンミュージアムに入る好日
ニコンマクロユニットNB-1の試作機 なんと「ニコンマクロユニットNB-1」の試作機と3本のマクロニッコールがさりげなく、 そしていきなり展示されていた。説明パネルを見てみる。 拡大撮影装置試作機(1968年)
・「ニコンマクロユニットNB-1」の試作機。
ニコンマクロユニットNB-1とマクロニッコール ニコンマクロユニットNB-1は「ニコンFニコマートマニュアル」に掲載されているものそのものだった。 展示では専用載物台が無かった。 実際の使い方は、拡大撮影装置本体の上にカメラが位置し、下にレンズを装着する。 レンズの先には載物台が装備されるスタイルとなる。
特別展の展示
ニコンマクロユニットNB-1とマクロニッコール 展示された3本のレンズは 「ニコンFニコマートマニュアル」に掲載されているものと外観が大幅に異なる。 仕様は焦点距離が同じで開放F値が明るくなっている。 カメラ部門が開発したマクロニッコール(MACRO Nikkor)であって、 マイクロニッコール(MICRO Nikkor)ではないことが鑑賞のポイントだ。
拡大撮影装置試作機(1968年)
マクロニッコール150mm F5.6とマクロニッコール80mm F4 レンズの前玉にバヨネットマウントがあることにお気づきだろうか。 これはニコンFマウントではない。 レンズをリバースするのが目的ではなく、反射板(リフレクター)・集光器を装着するためのバヨネットなのである。 マルチフォト用に用意されたリバキューン鏡(通称お椀)のようなものといえば話は早い。 ネジで廻すのではなく、カチリと止める設計になっている。 レンズによってバヨネットのマウント径が異なるようだ。
関係者には非常にインパクトのある公開だった
ニコンマクロユニットNB-1とマクロニッコール ● なぜ試作で終わってしまったのか 拡大撮影装置のアドバンテージを語るにはその機構を知らねばならない。 ニコンミュージアムの展示では、機能を文字で簡単に示した説明パネルだけだったので、 以下に本装置の光路を写真の上に赤い矢印で図に示した。 スピードライト(ストロボ)かタングステン電球(LEDがない時代なので白熱電球のこと)で光を試料および標本に当てる。 試料および標本に当てられた光は、ミラーによって光路を曲げられ、カメラのフィルム面に到達する。 レンズの焦点合わせはノブを廻すことでベローズが伸び縮みする。 ほんらいであれば長いベローズが必要であるが、光路を半分に切って折り返すことにより、 半分で収まる。かなりユニークな機構である。
拡大撮影装置の光路図 ニコン75年史資料集およびニコン100年史によれば、 マクロ写真装置マルチフォトは昭和43年(1968年)に発売されたと出ている。 マルチフォトはニコンの顕微鏡部門の製品である。 一方、カメラ部門が試作機まで作った拡大撮影装置が前述の文献に登場するのが昭和44年(1969年)3月の話。 大型で重量級のマルチフォト。方やハンディな可搬型の拡大撮影装置。 あきらかに設計コンセプトと想定しているユーザー像・使用環境が異なる。 どちらが優れているかとか比較するものではない。 もし拡大撮影装置が発売されていたのならば、 もうすこし気軽に撮影したい層には一定の需要があったと思う。 重量級の研究室据置型のマルチフォトに比べて、ハンディに持ち運んで書斎卓上に置いて使用できる装置も必要である。 ではなぜ拡大撮影装置は商品化されなかったのだろうか。 そこにはニコンの顕微鏡部門とカメラ部門の間に大きな壁があったと推測する。 顕微鏡部門は大正十四年に顕微鏡を発売している名門。 カメラ部門はそもそも先の大東亜戦争の終了後にぽっと出来た話だ。 ようするに格下なのである。 「マクロマニヤの間では」と意識の共有者を限定して述べさせていただくが、 マルチフォトはニコンのカメラ部門を無視して開発されたことがよく知られている。 マルチフォトの専用レンズを手に取って見ればすぐに理解できる。 専用レンズは4本用意されていて、顕微鏡の対物レンズと同じRMSマウントのレンズが2本。 指先ほどの小さい19mmと35mmの短焦点レンズである。 もう2本はライカL39スクリューマウントだ。こちらは65mmと12cmの長焦点レンズ。 すでにニコンFが世界一の一眼レフとして君臨していた。 一般常識では長焦点レンズの2本はニコンFマウントとするのが普通だろう。 しかもこの2本の長焦点レンズのフィルター径は38mm P=0.5 と特殊で、カメラ部門のレンズとはまったく互換性がない。 素直に40.5mm P=0.5 にすればフィルターもレンズキャップもニコンカメラ用のアクセサリーが使えて コストも改善できたはずだ。それよりもユーザーにとっては合理的であり便利なことが多い。 それなのにである。 そこにはカメラ部門の部品は意地でも使わないという当時の顕微鏡部門の決意が読み取れる。 どんな世界でも言えることであるが「よい製品だから売る」とは限らない。 もし拡大撮影装置が発売されていたら、 マルチフォトの購入を検討していたユーザーの一部は拡大撮影装置に流れたかもしれない。 なぜならば、拡大撮影装置は撮影倍率1倍から10倍までカバーしている。 撮影倍率が1倍から10倍まであれば十分と考えているライトなユーザーもいたはずだ。 卓上に置いたり部屋間で移動できるサイズ感も魅力的だ。 おそらく経営層は、同じような機能を有する製品を同じ会社から重複して販売するのは適切ではないと考えたのではないか。 当時のユーザーがここで一つの選択肢を無くしたことは残念なことだと思う。 拡大撮影装置は魅力的な商品になりえるはずだった。 ● 4本のマクロニッコール さてカタイ話はここまでとしてマクロニッコールに話を戻そう。 開催初日から数日後にレンズが1本追加されたと聞いた。 6月に入ってからだったが、さっそく追加されたレンズを見に行った。 緑帯の50mm F2.8レンズが1本追加されていた。 拡大撮影装置用に試作されたレンズが全種類揃ったことになる。
ニコンマクロユニットNB-1とマクロニッコール
これで展示は完璧となった
4種類のマクロニッコールレンズ 出揃った4種類4本のレンズのラインナップは以下のとおりである。
4本のレンズはすべてニコンFマウントである。 展示に説明はなかったが、下の写真で見てのとおり、リアキャップがFマウント用だ。 しかも左の赤帯レンズには濃い青色のリアキャップ。 真ん中の緑帯レンズには黄色いリアキャップ。 右の黄帯レンズには普通の黒いリアキャップのようだ。
横から展示品を見る
レンズリアキャップのカラーが興味深い 念のために言及しておくと、青色のリアキャップや黄色いリアキャップ、ほかにも黄緑色のリアキャップがあるが、 これらはニコンの工場内でしか使われていないものである。本物は試作品のレンズに付いていたりする。 3Dプリンターのおかげで贋作はいくらでも作れる時代になった。 e-bayなど見ると、赤や黄色にオレンジ、調子に乗って派手なピンクに水色など、 中国から1個100円程度で売られている。 Nikonのロゴマークまで入っていてこれは輸入禁止品目(偽ブランド品)であることは明らか。 国際的なフェイク品なので買ってはならない。
さらに詳しく観察してみよう
上から展示品を見る
ちょっと見方を変えて鑑定
4種類のレンズと製造シリアル番号 ● 青帯マクロニッコール 28mm F1.4 4本の専用レンズの中でサイズが大きめのマクロニッコール 28mm F1.4について少し。 特別展ではたくさんの画像を撮影したつもりでいたが、 マクロニッコール 28mm F1.4の撮影倍率の刻印とか、製造シルアル番号が確認できる画像を撮影できていなかった。 実はこのレンズだけ装置に装着されていて、しかも斜め位置で展示されていた。 撮影したい部位によってはかなりアクロバチックな撮影姿勢でないと撮れなかったのである。 そこでこのあたりの撮影が得意な有識者の方々に画像をお借りすることにした。
青帯マクロニッコール 28mm F1.4 M=10
絞りは1/3ステップで F1.4から F11まで
製造シリアル番号 No. 270001
● 5本目のマクロニッコール 時は2018年秋の話。 5本目のマクロニッコールが出てきたので記録に残しておく。 新しい発見はなにも前触れが無く、いきなり出てくるものである。 2018年の10月2日から同年12月27日にかけて東京・品川のニコンミュージアムで 企画展「幻の試作レンズたち」が開催された。 全体像は 試作レンズ展レポート を参照いただきたい。
企画展「幻の試作レンズたち」ニコンミュージアム 魚眼レンズと特殊用途レンズの展示
ベローズ用ニッコール-P 105mm F4
右下になにやら赤い帯のレンズが
マクロニッコール 65mm F5.6(1969年)
製造シリアル番号は No. 258003である。パネルの説明を読んでみる。 拡大撮影装置、つまり、ニコンマクロユニットNB-1用に専用設計されたレンズである。 すでに本展示の1年前に、4種類4本のレンズが展示公開により公知になっていたが、 5種類目、5本目のカメラ部門が設計し試作製造まで完了したマクロニッコールとなる。 それにしても65mmで開放F値がF5.6とはいかにも暗い。 すでに完成していた50mmはF2.8。80mmでもF4である。 サイズはコンパクトになるがメリットはそれだけである。 一眼レフカメラに装着してベローズで伸ばしたら正確なピント合わせはかなり難しい。 このあたりは設計のコンセプト(製品化する理由)をお聞きしたいものだ。
ニコンミュージアムからJR品川駅方面を望む秋空 こうして時系列に出土品を並べてみると、 まだまだ何か新しい発見があったり知見を得ることを期待してしまう。 その時は本記事にて、あるいは本サイト内で情報を追加していくことにする。 「なぜ試作で終わってしまったのか」で始まる言及は、著者の推測でまとめたものであって、 ニコンの公式な見解ではない。 このあたりの事実はいずれ明らかになる時がくるかもしれない。 あるいはずっと閉ざされたままかもしれない。 ツイッター等SNSのフロー型の情報発信は即時性はあるが、2日も経てば流れ去り忘れられてしまう。 ここはじっくりとストック型のウェブサイトで情報をアーカイブしていくしかない。 地味な積み重ねの蓄積ではあるが、後世に残す仕事は地味なものだ。
参考のために説明させていただくが、
当サイトで公開しているニコン製品のデータ(仕様、説明、写真図版等)は、
包括的に、株式会社ニコン様へ正式に掲載許可申請を行い、
審査を経て株式会社ニコン様より正式に掲載許可を文書で得ているものである。 ● あとがき 本記事の初稿は2020年9月にリリースしました。
Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2020, 2021
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