Beautiful Grace Röntgen Xebec 5cm F1.5 Lens

Vintage and Historical Legacy Lenses

ビューティフル・グレース レントゲン・ジーベック 5cm F1.5

時局レントゲン・ジーベック 5cm F1.5

ビューティフル・グレース。
美しい。じつに美しい鏡玉である。
「雪輪に草花文」を設え背景には天然の山茶花を置く。

世にクラシックカメラやヴィンテージなレンズの情報はあふれているが、 今までほとんど知られていなかったレンズを紹介したい。
極めてレアなレンズである。時代は時局。
昭和十八年から昭和十九年の話となる。 レントゲン・ジーベック 5cm F1.5である。

Xebec for Röntgen
F=5cm 1:1.5 No. 72091

理不尽で過酷な時代を経験してきたはずなのに語らず。
すでに佇まいからして別格な気高い品格。
桜の花びらが散らばる誰も見向きもしないような日陰の大木の下。
森かげに、レントゲン・ジーベック 5cm F1.5をそっと置いただけで、気配から音は消え、 さーっと潮が引くように空気が明るくなったようにかんじたのは気のせいではないだろう。

森かげに咲く花

設えは「雪輪に草花文」

山茶花と情況の結界にジーベック 5cm F1.5を置く

上のレンズの姿画像を見て、奇妙にかんじた方はおいでだろうか。
刻印の並びが非常に変わっているのである。
正面の化粧リング、リムというのか、 レンズのぐるり周り押さえているような黒い枠部分の刻印を見ていただきたい。 普通の写真用レンズは刻印がグルリと彫刻されている。
つまり、レンズ上部に正しく読める位置で刻印があると、 レンズ下部の刻印は逆さまになっているのが普通だ。 しかしこのレンズは、レンズ上部の刻印とレンズ下部の刻印が正しく読める位置に彫刻されている。 ぜひお手持ちのレンズと比べてよく見てほしい。

もともとこのレンズは大東亜戦争の時代に過酷な用途のために開発されたものだが、 レンズ設計者は、きっと後年日本は平和な時代になって、 自分が設計したレンズを鑑賞の対象として愛でる人間が出現することを想定し、 鑑賞用途としての刻印配置を決定したと思われる。

それはトンデモ考察だとするお方もいらっしゃるだろうが、 現に私はレントゲン・ジーベック 5cm F1.5を「鑑賞用レンズ」として愛玩している。
日本は品格高き花吹雪の中で、 盛夏は夕暮れてヒグラシの声を背景に風景を構成するのが好きなのだ。 もちろんその写りも素晴らしく高く評価するものである。
また、すでに故人の設計者に真相を聞くことが一般論として不可能であるとされているので、 そこはそれ、これはこれで、おさめていただきたい。

格調高いレントゲン・ジーベック 5cm F1.5の写り

レンズが開発された背景や歴史について言及する前に、その写りを先に紹介しておこう。
とにかく素直によく写るレンズである。
花の輝く生命感を一瞬にして再現してみせるパワーを秘めている。
ビューティフル・グレースな鏡玉は、その写りもビューティフル・グレースなのである。

普遍的無意識とコヒーレント共鳴励起の観測
(レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の写り)

日本画の色彩は白磁、灰桜、淡紅藤を的確に再現をする芸術的鏡玉
(レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の写り)

満天星の花

満天星の花と書いて、「まんてんぼしのはな」ではなく、「どうだんのはな」と読む。
満天星躑躅と書いた方が一般的かもしれない。
昭和十九年頃に製造されたかなしい過去を持つレンズを使って、 「満天星躑躅」の撮影に挑んだ。 レンズはレントゲン・ジーベック 5cm F1.5である。
絞りが無い。F1.5に固定である。
ビューティフル・グレースな鏡玉は、その写りもビューティフル・グレースなのである。

レントゲン・ジーベック 5cm F1.5が見た満天星躑躅の気品

躑躅は字画の多い難しい漢字だ。
漢字検定のテストにしか登場しないのではないか。
躑躅はツツジと読む。ドクロではない。 髑髏。ぱっと見は似てゐるが意味はかなり異なるように思える。 しかし花は残骸と仮定すると同じに見えてくる。
満天星躑躅。まんてんのほしつつじ。
他にも読み方があるようだが、それはそれとしておこう。
灯台躑躅。とうだいつつじ。 ドウダンツツジと読む方もいるようだが、そのあたりは自由にしてもいいだろう。

これは灯台躑躅 (レントゲン・ジーベック 5cm F1.5 絞り開放)

こちらは満天星躑躅 (レントゲン・ジーベック 5cm F1.5 絞り開放)

グランドゴージャスな桜花日本

桜花は日本である。
ならば昭和の鏡玉「レントゲン・ジーベック 5cm F1.5」を手に花見ときめたい。
いざ、ファインダーに浮かび上がる映像は尋常ではないオーラを放っている。
花見弁当にワンカップしているばあいではない。
ビューティフル・グレースな鏡玉は、その写りもビューティフル・グレースなのである。

グランドゴージャスな桜花日本

ブリリアントな日本の午後の光線を透過するレンズの純情

設えは「縞唐花菱紋」に花は桜
凛と佇むグランドゴージャスなレントゲン・ジーベック 5cm F1.5

花見弁当にワンカップしているばあいではないと少しばかり思ったが、 思っただけにするのも大人の作法であり人生には必要だ。
撮影を一時中断して花見弁当タイムとさせていただきます。
京樽さんで買ってきたお花見仕様の弁当できめた(そこまでリキむ話ではないが)。
お稲荷さんに茶巾寿司を追加し白鶴の熱燗があれば宴会となりそうな撮影行だ。

花見弁当

撮影を中断し弁当タイム

花より弁当

さて。花見の続きをしよう。
昭和の鏡玉「レントゲン・ジーベック 5cm F1.5」の実写画像の続きをご覧いただきたい。
絞りがそもそも無い。開放F値1.5の世界である。
フォーカスリングもこの世界では無いのが当たり前。
焦点リング、ピントリング、ヘリコイド。なにやら呼び方はいろいろあるようだが、 ようするにピントを合わせるためにレンズ鏡胴にある回す部分の話。
私はじまんではないが、今世紀に入って、 ピントリングの付いているような贅沢なレンズを使ったことがない。 レンズマウントだってご覧のとおりの奔放さだ(下の画像参照)。
それでも鏡玉はビューティフル・グレース。 その写りもビューティフル・グレースなのである。

優美な鏡玉による撮影姿

ビューティフル・グレースなレントゲン・ジーベック 5cm F1.5の描写

エーデルワイスのような高貴な気高い白

春の風にゆれる桜花

とにかく淡い色彩の再現力が魅力だ

レントゲン・ジーベック 5cm F1.5
昭和モダンでアバンギャルドな光学硝子の塊

昭和余年は白熱電球の硝子の傘は乳白色だつた

天上の優美地上の気品
レントゲン・ジーベック 5cm F1.5による微妙な色彩表現

桜の下でただ美しければそれでよい

「縞唐花菱紋」は正倉院に伝わる夾纈(きょうけち)染の幡(ばん)につかわれている文様。 豪華さと洗練された風情を漂わせる裂である。
レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の存在感にふさわしい。
桜の下でただ美しければそれでよいのだ。

時空を超える鏡玉の存在感

桜花と鏡玉の形而上学的な構成

桜吹雪に鏡玉は美しいお道具

他のレンズにはない不思議な描写と中世日本文学的な色彩表現力

レントゲン・ジーベックの歴史を探る

さて、このレンズは何者なのだろうか。
レンズ単体で世に出たわけではない。カメラとセットで製品化されたのである。
このレンズがセットされていたカメラを見ていただこう。

日本光研株式会社製X線蛍光像縮写機

小型の黒いトランクケース。
ケースには製品名もメーカーロゴも入っていない。
パカとフタを開けると両サイドに専用カメラボデイが2台、中央に取付けアダプター、 手前にフィルムマガジン8本がズラリとキッチリとセットされているのが壮観。
レントゲン・ジーベック 5cm F1.5は中央の取付けアダプターにねじマウントされている。
箱の裏のクッション地には、 両肩に星が光り鷲の姿がデフォルメされたようなマークが、 金箔押しで印されている。 文字が擦れているが「NIPPON-KOKEN」と読み取れる。
NIPPON-KOKEN、日本光研とはなにものなのか。

昭和十八年(1943年)四月一日。
東京市芝区田村町にあった三和商会のレントゲン部を独立し日本光研株式会社が設立された。
その3か月後の昭和十八年(1943年)七月一日。 東京市と東京府は廃止されて現在の東京都の設置となる。 大きく物事が動いていた時代だった。
この時代にあって、レントゲンカメラの開発は国家にとって急務かつ重要課題であったのだ。

2013年に公開されたスタジオジブリ製作の長編アニメーション映画 「風立ちぬ」をご覧になった方も多いだろう。
「煙草、計算尺、結核」がテーマの映画である。
堀辰雄の小説「風立ちぬ」を野田書房版か岩波文庫で読んでいれば話は早い。
あの時代、結核は不治の病といわれていた。
現代からするとにわかには信じがたいが、日本人の死亡原因の第1位っだのである。

「風立ちぬ」の時代

堀辰雄の小説「風立ちぬ」。
さすがに昭和13年(1938年)に刊行されたオリジナルの野田書房版を当時買ったわけではないので、 私が若気の至りで昭和47年(1972年)の夏に買った岩波文庫版をイメージショットとして置いてみた。

岩波文庫の星1つは堀辰雄「風立ちぬ」

話は横道にしっかりとそれるが、 当時の岩波文庫は昨今のように軟弱なイラストのカバーをつけてはいない。 この素っ気ない文学丸出しの表紙に愛嬌を排除した機能だけの帯。
そしてパラフィン紙でカバーされていなければ岩波文庫ではない。
ご承知のとおり岩波文庫は帯の色で分類されている。
松岡正剛さんの説明によれば緑帯は「日本文学近現代」である。

値段も無粋に表示してはいけない。
星マーク★の数で値段を示すのが岩波文庫の矜持ではなかったのか。
昭和47年(1972年)。当時の星1つは50円だった。 国電(JRなんて知らない)の初乗りが30円の時代である。 都内は港区三田の喫茶店のコーヒーが100円だった。

岩波文庫のパラフィン紙のカバーはたんなる汚れ防止かと思っていたが、 40数年に渡り試料を観察してようやく主たる目的が解明できた。
このパラフィン紙は紫外線に対して、 絶大なる遮断機能を有する。紫外線を吸収もしくは反射するのであろうか。 茶褐色に変色しパリパリになるので吸収するのかもしれない。
つまり、この薄い紙をかけているだけで、表紙も帯も「まったく焼けない」のである。 すくなくとも、昭和45年(1970年)から持っている何冊かは、 このパラフィン紙カバーのおかげで、表紙と帯は「まったく焼けがない」。
このあたりは学術研究されている方がおいでだろうから印象だけの話としたい。
これにて横道終了。
だいたいが、マニヤの話は横道にそれた時の方がおもしろいものであるが。

日本光研製蛍光像縮写機

話を元に戻す。記録によると、昭和十八年は日本における結核のピークだったようだ。
当時の雑誌記事(注1)には 「我が国の結核患者は年々200万人を数え、 死亡者も年16万人を下らず、しかも結核による死亡者の大半が青年である」とされ、 危機的な状況を読み取ることができる。 「死亡者の大半が青年」との悲愴な論説はすでに小説だ。

結核は空気感染する。集団の中に患者が出ては大きな問題となる。
特に軍隊のように朝から晩まで集団生活する空間では深刻な事態となる。 こういった背景から徴兵検査における胸部レントゲン撮影は必須であり絶対的な需要があった。

しかしながら、レントゲンの直接撮影では巨大な設備と暗室を必要とした。
1人あたり四つ切大(縦54センチ×横38センチ)のフィルムを使ったわけであるから、 設備は大掛かりとなり、コストは高い、なによりも大量にこなせないので効率が悪い。

そんな背景から蛍光像縮写器(エックス線間接撮影装置)による蛍光像撮影の方法が確立された。 昭和十七年厚生省規格の蛍光板サイズは35センチ×35センチ。 そして書面サイズ(フィルムの画面サイズ)は24ミリ×24ミリ。
この間接撮影は徴兵検査に大いに貢献したようである。
なにせ現在のフィルムパトローネサイズの小さい金属製マガジンに詰めた35ミリフィルム1本で、 50人分の連続撮影が可能になったのだから。50枚撮りというのだろう。
しかしこんなに小さいフィルムサイズで、まともな(正確な)診断ができたのかは疑問である。

(注1)雑誌記事に見る日本光研のこと
大阪市南区・カメラ興行通信社発行「カメラ興行通信」昭和十八年4月20日号
13ページの日本光研株式会社設立に関する記事を参考にさせていただいた。
当該記事では蛍光像縮写器と表記し説明されている。 カメラの現物には蛍光像縮写機と刻印されている。 このコンテンツでは「蛍光像縮写器」と「蛍光像縮写機」を明に分けて論じた。

日本光研製レントゲンカメラとレンズユニット

日本光研株式会社製X線蛍光像縮写機

なお、日本光研株式会社製X線蛍光像縮写機には、 ルミター(LUMITAR)5cm F1.5付きのセットも存在している。
レンズ銘は前面のリムではなく、 レンズの鏡胴に、時代を意識してドイツ語で 「LUMITAR 1:1.5 F=5cm für Röntgenschirmbild」との刻印が入っている。

美しいレンズユニットを取り外す

レンズはいわゆるスクリューマウントである。ネジ径はノギスで測ってみると35.7mm。
同じノギスを使って手持ちのレンズを測ってみた。 ズマリット5cm F1.5は38.9mm(ほとんど39.0mm)。 同じくELニッコール105mm F5.6も38.9mm(ほとんど39.0mm)。
ようするにネジ径はライカスクリューマウントよりも数ミリ細見の35.7mmである。

フィルター径は41mmである。
ライカのズマリット5cm F1.5用のフィルターがピタリとフィットする。

話はまた横道にそれてしまうが、私がいま使っている41mmフィルターは 東京は新宿にあったライカの専門店「トーホーカメラ」で買った。 歌舞伎町の風林会館の1階。
1980年代は初頭の話。当時私は二十代の終り。
そもそも当時のクラシックカメラ店は、 店の想いとは別の、顧客の連携による一種独特の雰囲気の醸成により、 二十代の若造などお呼びでない世界だったのだ。
ショーウインドーを見ることは許可されていたが、 お店の中にはとても一人では入れないオーラが充満していた。 四十代から五十代、それ以上の年配の紳士の常連客から「あんた何?」 (こういう店に入るには20年早いという意志表示)と言われそうな雰囲気。

それでもトーホーカメラのおやじさんは優しく接してくれて
「何か探してんの?」
「ああ、フィルターね」
「ライカのやつは高いからね」
「ケンコーに作ってもらったのなら安いよ」
というわけで国産の特注品を購入。スカイライト3,000円。高いけどライカ純正の1/4。
当時は41mmフィルターがマルミなどから販売されていなかった時代。

二十代の若者でもクラシックカメラ店に一人で入ることができるようになったのは、 田中長徳氏が1992年に日本カメラ社からハードカバーの「銘機礼讃」を上梓してからだ。
この事件をきっかけに様相はガラリと変わった。
さらには南青山に伝説の「レチナハウス」が開店。1995年7月のことだった。
クラシックカメラがおしゃれなファッションになった起源である。
もちろん昔のままの雰囲気の店も残っていて、 新宿だったら歌舞伎町にあったピンホール、 コマ劇場内にあった「カメラのいがらし」(通称イガラシカメラ)などすでに伝説である。
その事情・史実・エピソードだけでも話は長くなるのでここまでということにしたい。

話は飛んでしまった。 Röntgen Xebec 5cm F1.5レンズには、41mmフィルターがフィットする。

レンズ前エレメントと後エレメントがねじで簡単に分離できる構造

上代光学のこと

レントゲン・ジーベック 5cm F1.5のレンズそのものについて探ってみた。
XebecはK. O. L. の製品ブランド名である。
K. O. L. はKajiro Optical Laboratoryの略であって、上代光学研究所のことである。
名字でいくつか読み方があるようだが、上代(かじろ)と読む。
手持ちの文献の中から、 井上光郎さんがお書きになった「写真レンズの夜明け」(注2)を参考に会社の経緯をまとめてみた。

昭和十四年(1939年)七月
上代 斉(かじろ さい)が上代光学研究所(K. O. L.)を設立。

昭和十六年(1941年)
写真用レンズを供給する目的で光学メーカー五城光機製作所創設。

昭和十六年後半
五城光機の新設により、旧工場と商標権を取引関係にあった国策精工株式会社に譲渡。 従って、昭和十七年以降のK. O. L. レンズは経営者の変わった国策精工の製品となる。

昭和十八年(1943年)
5群7枚構成の50mm F1.5を開発。これはレントゲン用に転用された。
レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の誕生である。

千葉県大網白里市の広報誌「大網白里」(注3) に上代斉と弟の上代格のことが掲載されていたので、 当該部分を原文のまま以下に引用させていただいた。

「いわし文化」を知る
北今泉の上代平左衛門家(通称あらしき) は四天木の斎藤四郎右衛門家に次ぐ大網元でしたが、 大正八年漁業を廃業し昭和四、五年には二百ヘクタール の農地を解放し、当主の上代斎氏はやがて来るカメラの時代を予見して、 弟の格氏をレンズ研究のため、ドイツへ留学させました。 上代格氏は帰国の時、ドイツ娘ヘルタさんを伴っていた事は地域の話題となりました。

東京に出た斎氏は茂原の高橋民之助氏と共に、 「五條光機製作所(ザイカ)」を起業し、 レンズ研磨によりドイツのライカの下請けも行うなど順調に操業しましたが、 やがて戦争となり五條光機は技術院総裁井上匡四郎を以て、 「反射鏡製造の研究」に関し、試験研究の指令を受け軍需産業に従事します。
昭和十九年七月、米軍の東京空襲が激しくなり、淀橋に在った工場を疎開 する事を、時の総理大臣東条英機が文書を持って承認し、 五條光機本社は市川に、工場は社長の郷里北今泉水に疎開したのです。

以上原文のまま。
広報誌記事では五條光機と記載されているが、 当時の広告では五城光機となっているので五城光機が正しいと考える。

(注2)写真レンズの夜明け
朝日ソノラマ「クラシックカメラ専科」 No. 14 1989年10月1日発行
P. 128 井上光郎「写真レンズの夜明け」

(注3)広報「大網白里」
千葉県大網白里市発行 広報「大網白里」 No. 533 平成23年(2011年)9月号
P.6 鈴木茂「いわし文化」を知る

上代兄弟を追う

兄の上代 斉(かじろ さい)と弟の上代 格(かじろ かく)。
どんな人物だったのだろうか。
大東亜戦争前後のカメラ技術史を研究されている 立命館大学の森 亮資(もり りょうすけ)氏に聞いてみた。

以下に示す4枚の写真画像は、 すべて森さんが上代家のご遺族から収集した貴重な史料であり、 許可を得てここに掲載させていただくものです。

兄の上代 斉(1900−1996)
Photo: Copyright (c) 2017, The Kajiro Family, Ryosuke Mori, All Rights Reserved.

上代斉(かじろ さい)。千葉県大網白里の豪家の長男に生まれる。
上代家は、江戸時代から続く大網元兼大地主であった。
上代格の兄。U.L.L.三好レンズから独立し、 1940年にK.O.L.(Kajiro Optical Labolatory)を創業する。慶應義塾大学卒。
ネット上には上代斉(かじろ ひとし)と誤った名前の読み方が書かれているが、 これは上代斉(かじろ さい)が正しい。

弟の上代 格(1903-1990)
Photo: Copyright (c) 2017, The Kajiro Family, Ryosuke Mori, All Rights Reserved.

上代 格(かじろ かく)。千葉県大網白里の豪家の次男に生まれる。
上代斉の弟。19歳で渡独。
最初は著名な肖像写真家ニコラペルシャイドに師事するも、 ドイツ人の友人ザイラーの勧めで、 名門ベルリン工科大学(Technische Universität Berlin)で光学を専攻。
1928年に光学修士(Diplome Optiker)の学位号を得た。
ベルリン工科大学で光学を専攻し、学位を得た人物は、 日本光学工業は勿論、当時の陸海軍の研究機関にも存在していない。

大型写真機と写るこの画像は旧制長生中学卒業後渡独する頃(19歳)の写真。
レントゲン・ジーベック5cm F1.5(Röntgen Xebec 5cm F1.5)は、 ドイツ仕込みの光学設計技術をフルに発揮して、上代格が設計したレンズなのである。

上代格ベルリン近郊にて(1930年)
Photo: Copyright (c) 2017, The Kajiro Family, Ryosuke Mori, All Rights Reserved.

オートバイでツーリング行なのだろうか。在独中の上代格。
ベルリン工科大卒業直後と考えられる写真。 バイクはBMW-R32。ドイツ在留当時はBMW-R32サイドカーを愛用。 サイドカーに乗る女性はドイツ人で妻のヘルタさん。

愛車ハーレーダビットソンと上代格
レントゲン・ジーベック5cm F1.5の設計者

Photo: Copyright (c) 2017, The Kajiro Family, Ryosuke Mori, All Rights Reserved.

Xebecはジーベック

Röntgen Xebec 5cm F1.5。
Xebecは日本語発声では何と読むのか。
このあたりは時と場合、そして気分によって変わるのが日本である。
またそのゆるみかげんがよい。

Xenon。キセノンランプにキセノン原子。
ところがこれがレンズ名になるとクセノンと言う方が多い。
知識人ならびに文化人、そして意識高い系の研究者はゼノンと言っている。
Leitz Xenon 5cm F1.5は「ゼノン5センチ」となる。
ドイツ語読みしたり英語読みしたり。

しかしながら時局歴史的レンズとなると、その時代背景を理解してみる必要がある。
レントゲン(Röntgen)は彫刻の面倒なオー・ウムラウトをきちんと刻印している。
時代は敵性語としての英語を排斥してきた。
時の法律で決まったわけでない。 新聞・雑誌の扇動であるかは未確認であるので言及しないが、 市民はその奇妙な言語体系を支持せざるを得なかった。
野球でストライクは「よ〜し!」ボールは「ダメ〜!」の世界である。

さらには、なんといっても、設計に携わった上代格はドイツ帰りである。
レンズの製造は推定では昭和十八年か昭和十九年。
であるから時局ここでは、同盟国独逸のドイツ語でいくべきだろう。
しかしながら、クセベックと言うのはやめていただきたい。
音の響きが汚いのである。言葉は音の響きを含めて美しくなければならない。
Xebecはゼベックでもなくジーベックなのである。
なんだ英語読みじゃないかと言う方もおいでだろうが、 このあたりは論議の対象ではないので、異議のある方はそのままスルーしていただきたい。

夏の風と避暑地の文学

レンズの時代背景から、少々息の詰まる重たい話題が続いてしまった。
時代は戻り現代。
レントゲン・ジーベック 5cm F1.5の元気な姿をお伝えしたい。

避暑地。文学の発生はレントゲン・ジーベック 5cm F1.5の夏の風。
夏の日々。炎天下を歩くのもよし、木陰で冷たい飲み物も至福である。
昭和の夏だったらなお素敵だ。みどり色のガラス瓶に入ったサイダーなら装置となる。
現代に時間軸を戻したつもりだが、昭和十余年の空気となった。
存在するのは解釈だけなのだろうか。事実は存在しないと言いながらレンズは存在する。
これもレンズの意識である。

木々揺らす風の音聴け夏姿

じじつは存在しない存在するのは解釈だけだ

設えは室町時代末期の「花文唐草」

昭和十八年夏輝く

長いあとがき

本コンテンツは2017年2月に新規に製作したものです。
ニッコールレンズのお話ではありません。
私は日本光学製X線間接撮影装置用に専用設計された戦後版のレグノニッコールの研究を進めるために、 現物を収集していました。 しかしながら、とにかくモノが存在していない。
いろいろと探している間に、いくつかのレントゲン装置用のレンズが必然的に集まりました。
古い精機光学から新しいキヤノンもの、おなじみのコーワ、そして名門はドイツのローデンストック。 このあたりは数が出ているので新旧ともに自然に集まった感があります。
その過程のなかで、上代光学のレントゲン・ジーベック5cm F1.5の存在を知りました。
1989年発行の「クラシックカメラ専科」誌の中にその説明がありました。 いぜんからごく一部の方(日本で数人か)には知られていたようですが、 とにかく幻のレンズです。現物をお持ちの方が極めて少ない。

ところがある時、突然レンズの方から私のところにやってきました。
蒐集家の方からオファーがあったのです。写真装置(カメラ)一式はおまけです。
レンズのみでも、箱一式でも価格は同じと言われましたので、 時代考証用にカメラ一式の形態で蒐集家の方から譲り受けました。
さっそくレンズをデジタル一眼レフに着けて見ました。 いきなりその写りに衝撃を受けました。
それからの数年間は日本の四季との対峙。
春は桜に美酒、霞晴れて。 夏は夕暮れ、ビールに枝豆。 赤トンボの空、秋は黄金の稲田。 柿老いて、そして冬のたのしみを撮影してきました。

レンズが開発された経緯も過酷な時代の話です。
いつかは書きたいとあたためてきましたが、作例の画像ばかりがたくさんたまりました。
昨年は2016年に全面的なサイトの書き直しに順じて、新しいコンテンツの執筆が加速化しました。 その流れのなかで、レントゲン・ジーベック5cm F1.5の物語をまとめることにしました。

エックス線間接撮影装置が日本で誕生した背景については、 ニコンの社史やキヤノンの社史で言及されています。
特に1987年に発行された「キヤノン史」では、精機光学工業の時代、 昭和十四年前後のエックス線間接撮影カメラの開発物語が興味深いものになっています。
内容の紹介は別の機会ということにしたいと思いますが、 昭和十八年に日本光研株式会社が設立された時代背景と、 当時のカメラ技術を理解するのに大いに参考になりました。

毎度ながら、本サイトは読む方のこころの位置によってはポエム丸出しのコンテンツです。
ゆったりと「ああそうなんだ、ふーん」とか 「意味不明でたのしい」と読んでいただける方は幸福です。 どんなに仕事ほか日常でお忙しい日々を送っていても、こころが安定している方です。
「なんじゃこれ、ケッ」と思った方は、どうか休息をおとりください。
ゆるいことを許すのも大人の余裕ではありませんか。

それにしても上代格。
今までほとんどその人物や偉業が一般には知られていませんでしたが、 なんと大正時代にベルリン工科大学に学び、光学修士の学位号を得ていたと知り驚きました。
1本のレンズがご縁で、遠いむかしの、 光学設計技術者の熱い想いに、そして時空を超えて歴史的激動の時代に邂逅することができました。
これには人間の思慮でははかれない不思議なレンズのパワーをかんじました。

画像は資料性を高めるためにクリックすると大き目のサイズで表示するようにしてあります(一部を除く)。

本文よりもあとがきの方が長い。そして手紙においては追伸の方が長い。
それは正しい姿であって、ほんとに言いたいことは、 末尾の世間体から外れた普遍的無意識な数行にあるものなのです。

RED BOOK NIKKOR
秋山満夫

私に人生と言えるものがあるなら

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