EL ニッコール 63mm F3.5 ファイアー・エンジン ● マイクロフィルム専用レンズ ニコンの引き伸し用レンズ「EL ニッコール」の話である。 「EL ニッコール」は、「イーエル・ニッコール」ではなく「エル・ニッコール」と呼ぶ。 念のために書いておく。そんなのあたり前でしょうという方もおいでだと思うが、 株式会社ニコンが 2006年に引き伸し用レンズの販売を終了してから十余年。 もうご存知の方は希少種だろう。そんな背景もありそこはきちんと言及しておきたい。
白地花鳥獣模様更紗(江戸時代17世紀~18世紀) さて、本題に入ろう。 数ある EL ニッコールのなかでも人気が高いのがこのレンズだ。 35ミリ無孔のマイクロフィルムはその性質上きわめて高い解像力を持つが、 このレンズはそれを再現するのに十分な高解像力をもつ。 開発の狙いはここにある。高解像力だ。そして誰もが認める高画質。 50mmより一回り大きなイメージサークルが、画像にゆとりを生むのだろう。 色収差補正波長域が近紫外線域に及ぶことも特筆されている。 ちなみに、EL ニッコール 63mm F3.5は、カタログ等ではマイクロ判用の引き伸しレンズと説明がある。 マイクロ判とはどんなサイズなのだろうか。 おなじみの35mm判のサイズが 24mm x 36 mm にたいして、マイクロ判は 32mm x 45mmとニコンは説明している。 35ミリ判、いわゆるライカ判より少し大きなサイズとなる。
佐渡金山砂金色に輝く EL ニッコール 63mm F3.5 このレンズの歴史は古い。 ニコン75年史資料集によると発売は昭和41年(1966年)6月。 1980年2月15日版の価格表に記載があることを確認している。 後継の新型となった New 63mm F2.8Nは1980年6月15日版の価格表に登場していることから、 EL ニッコール 63mm F3.5は1966年から1980年の長きにわたり製造販売されていたことになる。 汎用性の高いライカL39スクリューマウントなので、BORGのヘリコイドを介してニコンカメラに装着した。 野草の撮影や木の幹を精密描写する場合に優れている。 開放でもF3.5と、このクラスのレンズにしては少々暗いが、気にならない。
EL ニッコール 63mm F3.5 スローレンズ ● テクニカルデータ EL Nikkor 63mm F3.5
-焦点距離: 63mm
-発売時期: 1966年 8月
(注)色収差補正波長域
(注)レンズの重量について
EL ニッコール 63mm F3.5のレンズ構成図
EL ニッコール 63mm F3.5のレンズ構成図(各部寸法入り) ● 開放絞りはF3.5が正しい 武蔵野の雑木林。 人里離れた観光地ではない名もないスポットだが、レンズ表面に大気を写すには最適だ。 冷気のような木々の映像が天空から降りてくる。 EL ニッコール 63mm F3.5は 1980年にフルモデルチェンジされた。 レンズも新設計で開放絞りも F2.8と明るくなった。 外観も現代的なデザインになった。 ここは好みがわかれるところだが、レッドマニヤとしては旧型の F3.5がおすすめだ。 金属加工とか黒塗装の仕上がり、大きめに刻印された白い絞り値表示。 Nippon Kogaku Japan銘なら趣味性が高い。 でも後期型のNikon銘だったら自然科学写真家御用達として評価できる。
開放絞りは F3.5の潔さ ● 市場では少ない レンズ前玉が EL ニッコールにしては大きめで、上質のコーティング色もよい景色である。 中古市場での 63mm F3.5の数は意外と少ない。あるようでないのがこのレンズなのだ。 前に述べたとおり14年間と長きに渡り製造販売されていたが、 重量級の 80mm F5.6より高価で、当時のこのクラスの引き伸し用レンズにしては定価が高めだった。 また、一般の写真ユーザーは 50mm F2.8で十分だったため、当時購入した人は少なかったと思われる。 ちなみに著者が 1973年に写真のプリントを始めた時に、購入した(価格的に購入できた)引き伸し用レンズは EL ニッコール 50mm F4 だった。当時 EL ニッコールの中では最も安価なレンズだったが、性能には十分満足した。 40.5ミリのフィルター径は使いやすい。 各種アダプター類もかんたんに入手できる。 もちろんほんらいの引き伸ばし目的で使用しても非常に優れた性能を手にできる。 一眼レフカメラに装着して、日曜自然科学写真家になるのもたのしいものだ。
鏡玉の奥に映る雑木林の木漏れ日 ● 存在感は十分 大人が日曜日にたのしむカメラは、これできまりだ。 なんといっても、さくっと記念写真を撮るには不向きだ。 これはデメリットなのか。 メリットと考えられる方は、ぜひ旧型の EL ニッコール 63mm F3.5できめてほしい。 小さい EL ニッコールでも存在感は十分だ。精密な描写には安心感がある。 絞りのクリックがカチリと動く。風だけの雑木林で音がした。 レンズもスローなのがよい。
小さいが存在感のある EL ニッコール 63mm F3.5 ● コレクターズノート 私のところに問合せが複数あったので、ここに情報をシェアしておきたい。 EL ニッコール 63mm F3.5の絞りは、開放の F3.5にしても完全にオープンにならず、 すこしばかり絞り羽根が残る。 確認のため、EL ニッコール 63mm F3.5を全部で 4本購入したが、 4本ともに絞り羽根が残るので、そういう仕様なのだろう。 開放の F3.5にしても完全にオープンにならず、 下の写真のように八角形に絞り羽根が残るのは正しい仕様なのである。不良品ではない。 現物を手にしたことがなく、 ネットオークション等で初めて入手する方へのご参考に言及しておくものである。
これで絞り開放 F3.5にフルに開けた状態
絞り開放 F3.5で 4本ともに絞り羽根が八角形に残ることを確認 ● 日曜自然科学写真家
EL ニッコール 63mm F3.5による実写画像である。
ニコンのコンパクトデジタルカメラ COOLPIX P5100に、
コンバージョンレンズとして EL ニッコール 63mm F3.5を装着した。
レンズを装着するために専用のアダプターを特注したが試作の 2個だけで終了。
カメラより高いものについてしまったが満足だった。
COOLPIX P5100に EL ニッコール 63mm F3.5を装着
繊細なハルジオンの白い花びら
五月の風に揺れるハルジオン
深淵なタンポポと空気の色彩
タンポポの壮大な宇宙観
上昇気流な気分はタンポポ ● 40.5mmアクセサリー EL ニッコール 63mm F3.5のフィルター径は 40.5mmである。 新しいニコン純正の 40.5mmフィルターとキャップ、それに3種のレンズフードが今なら新品で入手できる。 レンズ交換式アドバンストカメラ Nikon 1シリーズ用の専用アクセサリーだ。 詳しい話は ウルトラマイクロニッコール用フィルター のところで説明しているので参照していただきたい。 40.5mm径ニュートラルカラーNCフィルターと 40.5mmレンズキャップ LC-N40.5を置いてみた。 EL ニッコール 63mm F3.5には、レンズフード HN-N101、レンズフード HN-N102、 それにレンズフード HN-N103が装着されている。 左下のリングは旧製品だが、EL ニッコール 50mm F2.8および EL ニッコール 63mm F3.5専用の 40.5mmリバースリングである。 なお、わるいことは言わない。 ここだけの話であるが、40.5mm径のニュートラルカラーNCフィルターだけは買っておいた方がよい。 MADE IN JAPAN製(ちょっと日本語がへんだが)で最高の品質のニコン純正のフィルター、 しかもレアな 40.5mm径が実売でたった 2千円ちょいで買えてしまうのである。 私は 1個あれば十分なのだが念のため 2個ゲットしてしまった。 Nikon 1シリーズはすでに終売となった。関連の小物は販売終了後に探すのは難しい。 この世界の先輩方がよくお話されていたことだ。
豊富な 40.5mmアクセサリーが活用できる ● 接写ばかりではない撮影例 作例がタンポポのアップばかりだったので接写でしか使えないと誤解されていたようだ。 ある会合で、「EL ニッコール 63mm F3.5って無限遠出るんですか?」と聞かれてしまった。 ここですこし軌道修正しておかねばならない。 EL ニッコールの場合、焦点距離が 63ミリと長めだと、35ミリ一眼レフカメラに装着して無限遠はラクに出る。 実際の撮影例を見ていただくことにしよう。
ニコンの古いDXフォーマット(APS-C)のデジタル一眼レフカメラに、EL ニッコール 63mm F3.5を装着した。
L-F接続リングを介してリバースせずに順方向の直付けである。
きっちりネジ込んでしまうとオーバーインフになるので、L-F接続リングとレンズの間をすこしゆるめる。
これで、いわゆる無限遠とか遠景が撮影可能となる。
初夏の成層圏の下に樹木図鑑の精密な描写 色乗りはご覧のとおり重厚かつ、樹木図鑑のような原音に忠実な色再現性を有する。 絞りは F8に絞ってみた。合焦している面と後ボケのグラデーションがなめらかである。 本格的デジタル作品派のみな様には恐縮であるが、カラーバランスはオートで Jpegの撮って出し、無加工である。 マニュアル露光なので、約 2/3段ていど露出を詰めてみた。
EL ニッコール 63mm F3.5ならではの生真面目な描写 小さく軽いレンズなので山行などに最適だと思う。 E2リングなどのありふれた接写リングを1枚入れるだけで高山植物のマクロ撮影にも素直に順応する。 なにせ、たった 130gの超小型精密レンズである。ポケットに最強の高性能レンズがあるのは心強い。
もうこのレンズ1本でいいんじゃないか
晴天の目に青葉健康的でニュートラルな描写
五月の花瓶のお花は気立てがよい
古典文学的に美しいボトルラベルの質感になだらかなアウトフォーカスの文字
● こまかい話 「ひきのばしレンズ」をどう表記するか。 本サイトでは、なるべく当時の表記に従うというコンセプトのもとに、ニコンの一次資料に従うことにした。 手元にある 1973年版から 2000年12月2日版の実に 27年間、7種類の Nikon EL-Nikkorカタログには 「引き伸し用レンズ」と表記されている。 EL-NIKKORを指す場合は「引き伸し用レンズ」、 一般論としての写真を拡大プリントするための専用レンズを指す場合は「引き伸しレンズ」とする。 そもそも表記が統一されているかというとそうでもない。 新設計となった Nikon EL-Nikkor 50mm F2.8Nのペラ 1枚のカタログ(パンフレット)。 表には「引き伸し用レンズ」と書いてあるが、裏面には「引伸し用レンズ」とあるので混乱する。 (昭和54年6月21日版、8211-01KJC 906-20/1より引用) ニコン標準小売価格表(1980.2.15版)にも「引伸し用レンズ」とある。 EL ニッコールが販売終了間近となった2004年8月25日版カタログでは「引伸し用レンズ」と表記されている。 時代の流れで変化しているのが興味深い。 それではニコンの社史はどうなっているのか。ニコン75年史を開くと 「し」が入っていたりなかったり、P.87、P.115、P.145、P.169で見る限り統一されていない。 手元にある紙の辞典。1980年代発行の大型辞典を選んで調べてみた。 岩波書店の広辞苑第三版、小学館の国語大辞典第一版、研究社の新和英大辞典第四版。 しかし和英辞典がいちばん役に立ったのはどうしたものか。 いま無数のネット上に見る表記は「引き伸ばしレンズ」との表記が圧倒的に多い。 ソフトの漢字変換によるものだろう。国語を造っているのはソフト屋なのか。 こまかい話であるが、時代と情報環境とともにいろいろなのである。 どれも読めるし理解できる。正書法のゆるい現代日本語の範囲内ということにしよう。 本サイトでもパソコンの漢字変換(Microsoft IME)のままになっているケースも多々あるだろうから、 そこは大目に見ていただきたい。 引きの「き」が入っていたりなかったり、伸ばしの「ば」が入っていたりなかったり、 「し」が入っていたりなかったり、どうでもいいこまかい話ですみません。 それを言ってしまうと、レンズ本体の刻印は「NIKKOR」で、 カタログやら紙モノには「Nikkor」とある話にまでヨタ話が続くことになってしまう。 もちろん「NIKKOR」となっているカタログやら紙モノの現物史料も手元にあるが、ここまでとしよう。
そんなこともあったよね ● 基本性能が優れたレンズ 令和の時代の現在でも非常に人気のあるレンズである。 株式会社ニコンが引き伸し用レンズの販売終了を発表したのは 2006年。 それからかなりの年月が経過した。 しかしながら、コアな高性能レンズ愛好家の方々が、 ハイエンド・フルサイズミラーレスカメラの撮影レンズとして使っているのを知ると、 基本性能が優れたレンズだったことを実感している。
基本性能が優れたレンズを実感できる EL ニッコール 63mm F3.5
「ひきのばし」レンズの表記でこまかい話をしてしまったが、
ニコンのウェブサイトではどうなのかと確認してみた。
書斎で古文書複写にも EL ニッコール 63mm F3.5が活躍する
ニコンF2T+L-F接続リング+E2リング+Nikon AR-1 ● ニコン Z 写真帖 ニコン Z 6 に EL ニッコール 63mm F3.5を装着して撮影した。 接写とか近距離ではなく、いわゆる無限遠での撮影である。 実際には距離にして約600メートル先の景色なので、有限であり遠景での撮影となる。 そもそもが引き伸し用レンズである。 しかしながら、一部のコアなマニヤ様の間で定評のとおり、遠景にきわめて強い。 2450万画素のスタンダードなカメラを使用したが、 画像処理エンジンが優れているのでレンズ本来のポテンシャルを引き出せた。
EL ニッコール 63mm F3.5による鉄道写真 撮影セットは以下のとおり。 マウントアダプターはニコン純正の FTZ だと精度が高すぎて L-F接続リングが少々きつい感じがしたので、 すこしゆるめの社外品を使用した。
Nikon F - Z マウントアダプター いつもの遠景撮影の定点ポイントは京王線の多摩川橋梁を望む地点から撮影した。 レンズは1段だけ絞り F5.6 で撮影したが、極めて良質の映像をさらりと叩き出したのはさすがと言うしかない。 すべてJPEGの撮って出し無加工の画像である。 画像をクリックし等倍で見ていただくとわかるが、鬼のように解像しているのがわかる。
EL Nikkor 63mm F3.5, ASA 200 F5.6 1/5000 sec. -0.3 撮影の背景などは個人の事情であり、あまり興味ないと思われるがこれだけは記しておきたい。 この実写画像は 2019年9月25日(水)に撮影した。多摩川には雲がダイナミックに走っていた。 きわめて絵になる情景だったのでニコン・ゼットを持ち出した。 いまおもうと首都圏の歴史に残る大型台風が来る前ぶれだったのだろうか。
EL Nikkor 63mm F3.5, ASA 200 F5.6 1/6400 sec. -0.3 令和元年台風19号。東京エリアのピークは 2019年10月12日。 首都圏ではまさかの多摩川流域で甚大な被害があった。 この日以降定点撮影のポイントの景色と雰囲気は大きく変わってしまった。 自然災害とは無縁と思われていたタワーマンションでも、 一部で停電に断水が長引き被害が及んだことがニュースになった。
EL Nikkor 63mm F3.5, ASA 200 F5.6 1/4000 sec. -0.3
夏雲走る鉄橋。とおく渡る鉄路の音が聴こえてくる。EL ニッコールで鉄道写真。
そりゃ理性と一般教養では無茶な話と私でも理解している。
であるが、エル鉄(c)は義理と人情を理解する情感豊かなレンズでガツンときめたい。
とおもう。
● EL ニッコール 63mm F3.5 の再評価
本サイトでは、EL ニッコールの新しい枠組みとして、
「オールドスクール エル ニッコール」を展開している。
2022年に新しい視点で EL ニッコール 63mm F3.5 を再評価してみた。
本記事と併せてぜひご参照いただきたい。
EL ニッコール 63mm F3.5 ● 2024年のあとがき このコンテンツのオリジナルは 2001年11月に書いたものです。 画像は 1枚のみで短文を添えたシンプルな記事でした。 2016年のサイト移動に伴う見直しにあたり、テクニカルデータを掲載し、実写作例を入れました。 続く 2018年の改版では、レンズ構成図とやや遠景の実写作例を追加しました。 2020年の改版では「ニコン Z 写真帖」として Z 6 による実写作例を組み込みました。 2022年には新しい記事へのリンクを末尾に置きました。
Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2001, 2024 |