野尻抱影先生とロング・トムそして大空詩人永井叔
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Very Vintage Telescope "LONG TOM" Big Sky Poet Yoshi Nagai Memorial Summer 1940 ● 夏の夜 すばらしい、貴重な歴史的写真をご覧ください。 時代は戦前。東京市は世田谷区桜新町の野尻抱影先生宅庭先。 夏の夜。暗碧の空。 抱影先生と天文観測につどう青年少女。 マンドリンを弾く伝説の吟遊詩人、永井叔。 写真の裏面には抱影先生のブルーブラックの筆跡で「 10数年前の夏の夜、筆者の庭に集まった青少年と筆者の娘、 マンドリンを持ったのは大空詩人の永井君。 望遠鏡は口径4インチの”ロング・トム” 」と書き込みをされています。 お願い: この写真画像は、五藤光学の児玉光義氏のご尽力により、 野尻抱影先生のご遺族の許可を得て、 特別に掲載させていただいておりますので、二次利用や流用、掲載を厳禁いたします。 ● 美しき昭和の夜風 この写真が撮影されたのは、昭和15年9月11日の水曜日。 野尻抱影先生宅で開催された「星を見る会」。 抱影先生はこの年、早稲田大学文学部講師となり「星と神話」を講義していました。 大空詩人の永井叔を招き、 教え子である早稲田の学生とともに、夏の星空をロング・トムで眺めたのです。 この写真はどんなカメラで撮影されたのでしょうか。 フォーマットおよび画像の鮮明さから考察すると、 当時の最新鋭機6×6判カメラ、ローライフレックスで撮影された可能性があります。 演出が入ったであろう人物配置とポーズ、安定した画面構成、 適正露出の閃光電球操作、写真のクオリティから、 当時の職業写真家のものであることが想像できます。 そうです、撮影したのは講談倶楽部の写真班。 この写真は「講談倶楽部」昭和15年11月号に掲載されました。 写っている青年、少女の足元はゲタばきです。 抱影先生の指差す先には、惑星がかがやいていたのでしょうか。 夏の夜。ちょいと涼し風をかんじる美しい写真です。 主役は日本光学製4インチ屈折望遠鏡「ロング・トム」。 フードがない特徴的な鏡胴に黒いファインダー、がっしり頑強な木製三脚には、 エレベーター付きの経緯台が搭載されています。 なおこの写真は、オリジナルプリントに一部キズやスポットがありましたので、 デジタル修復してあります。 ● 五藤斎三と永井叔、そして野尻抱影
五藤光学研究所の創業者である五藤斎三氏が、
昭和54年に発行した自伝的著書『天文夜話・五藤斎三自伝』。
そこには驚くべき史実が記録されていました。
とあります。 五藤光学研究所は大正15年9月の創業で、 三軒茶屋の五藤斎三の自宅で2〜3人の従業員を使って、 口径25mm、f=800mmの単レンズの望遠鏡を組み立てて科学画報社に納めていた時代です。 また、野尻抱影は、 当時は三軒茶屋から玉川通りを南に下った、桜新町に住んでおりました。 従って、野尻抱影の自宅の庭で行われた観測会に、 大空詩人永井叔が顔を出しても少しもおかしくはありません。 以上のように、児玉さんの話は説得力があり、時代の男たち、 五藤光学研究所の創業者である五藤斎三氏、大空詩人永井叔、 そして野尻抱影先生を結びつける接点があぶり出されてきたのです。 永井叔の自叙伝「大空詩人」を読み返してみると、 193ページに以下のような記述がありました。
天文に興味がある方ならご存知の通り、 山本一清博士は当時京都帝国大学理学部教授で、 日本で最も歴史の長い東亜天文学会を1920年に結成しています。 結成当時の正式名称は「天文同好会」。 詩人永井叔が東亜天文学会の会員だったことが分かりました。 天体観測、日本光学製天体望遠鏡をキーに、 五藤斎三氏と詩人永井叔、そして野尻抱影先生がみごとにつながりました。
大正14年の日本光学望遠鏡カタログ なお、東亜天文学会と永井叔の関係については、 日本ハーシェル協会の角田玉青氏のお力を借りました。 天文歴史研究家である角田さんは、ブログ「天文古玩」を運営されており、 かなり古い時代の天文台や天体望遠鏡について調査報告をされている方です。 氏は東亜天文学会の会員でもあることから、 会報「天界」に永井叔の名前が出てくるかお聞きしたのです。
「天界」の創刊は大正9年(1920年)11月。
大正15年(昭和元年)から昭和15年あたりまで確認していただきましたが、
記事および会員名簿等には永井叔の名前を見出すことができませんでした。
遊「野尻抱影/稲垣足穂★追悼臨時増刊号」にも掲載された写真 雑誌「遊」工作舎。1977年12月臨時増刊号。 本サイトをご覧のエキセントリックでアバンギャルド志向の読者様には説明するまでもありませんが、 あの松岡正剛さんが1971年に創刊した鋭利な総合文化雑誌。 あまりにも時代を50年ほど先走った感。 「松岡正剛の千夜千冊」はなんと第1811夜をして、まだ頂に向かって驀進中。 ● 抱影先生と大空詩人の出会い
この特別研究のために、古書店を探してやっと入手したのが永井叔の自叙伝の続編。
時は昭和15年夏。抱影先生55歳。永井叔44歳。 ● 戦後の再会 楽しかった夏の夜の観測会。 翌、昭和16年、日本は太平洋戦争に突入する。 国家総動員法発布、学徒出陣、そして昭和20年終戦。焦土に過酷な青空。 あの、写真に写っていた青年たちの消息はどうなったのでしょうか。 生きていたのでしょうか。 五藤光学の児玉光義さんに、その後の消息はどうなったのでしょう、 とお話したところ、なんとか調べてみましょうと回答がありました。 なんとか調べるといっても、どうやって調べるのでしょうか。 児玉さんは、抱影先生の著書や記事が掲載された雑誌の世界的コレクターです。 夏の夜の観測会の写真は、永井叔の証言により、 野尻抱影先生のいくつかの著書に登場することになります。 さっそく児玉さんは蔵書の山に分け入り、戦後出版された文献を中心に精査し、 探索を開始されたのです。 手がかりがないと思えた蔵書資料から、 お目当ての探しものを見つけた嬉しさは経験した人でないと理解できないでしょう。 「見つかりました!」と児玉さんから連絡が入ったのは数日後のことでした。 児玉さんの野尻抱影文献コレクションから、写真の人物たちの、 その後を追ってみました。
左は創元社『新星座巡礼』1952年、右は白鳥社『星の神話・傳説』1948年 白鳥社より刊行された『星の神話・傳説』昭和23年7月15日発行。 口絵に写真が掲載されており、「指さすアンタレース 著者の庭で」 というキャプションがつけられています。 また、本文の最後、279ページに「指さすアンタレース(口絵)」 と題する一文があります。 ここに、写真に写っていた青年たちの消息が記録されていたのです。 以下に引用させていただきます。
また、抱影先生は掲載誌のために、
オリジナル写真の裏に説明の手書きメモを書かれていますが、
その掲載誌が特定できました。
野尻抱影先生とロング・トムそして大空詩人永井叔
いろいろな新事実が掘り起こされてきました。
推理小説のなぞ解きのような、わくわくする、エキサイティングな時間でした。
それにして、青年たちは、おお、みんな無事に生きていたのだった。
彼らは7人とも全員戦争に行き、
「そして残らず無事に帰って来た」
と記した抱影先生の安心とも喜びともいえる言葉が優しい。 ● 大空詩人永井叔
永井叔の自叙伝二冊 同成社版
永井叔(ながい よし)。明治29年(1896年)生。昭和51年(1976年)没。
大正時代の元祖ヒッピー。エスペランティスト。叛体制詩人。 自叙伝「大空詩人」および「青空は限りなく」が基本文献といわれていますが、 彼の生きた大正から昭和の道すじをトレースしていくと、 大戦前夜の昭和の夏夜空に天体望遠鏡を向けることができた野尻抱影先生の時代と、 五藤斎三氏が五藤光学研究所を創業したこころざし、 そして大空詩人永井叔の存在が鮮明に浮かび上がってくるのです。
ニコン研究会
謝辞:
株式会社五藤光学研究所 児玉光義様
参考文献 ● その後の話 2006年5月に本記事が公開されると大きな反響がありました。 特に冒頭に示した「野尻抱影先生とロング・トムそして大空詩人永井叔」 と題した昭和15年夏に撮影された写真はインパクトが大きかったのです。 それから12年が経過した2018年。 クリスマスも過ぎた年末のことでした。 中央公論新社の文芸編集部から 1本のメールが届きました。 石田五郎先生の著書を初文庫化する話でした。 表紙カバーデザイン用に昭和15年の写真を探しているとの説明でした。 すでに野尻抱影先生のご遺族(野尻先生のお嬢様)から写真使用の許諾を得ていて、 写真のオリジナル原版を探しているので協力してほしいとのお話でした。
「星の文人 野尻抱影伝」石田五郎著 中公文庫 年が明けた2019年。 この写真について知っている五藤光学の児玉光義さんに連絡を試みました。 しかし12年の時の経過は大きく、 既にご本人は長く勤務された株式会社五藤光学研究所を退社されていて、コンタクトするのに時間を要しました。 事情を精査したところ、写真原板は野尻先生のお嬢様のところにあるはずだが、 90歳を超える高齢のためか見つけるのは難しいとのことでした。 結局、本サイトに掲載している画像を使用することになりました。 解像度などもっと高品質のものが望まれるところですが、 デザイナーと印刷技術者の手腕で、上質な仕上がりのカバー表紙が完成したのです。 本書は2019年春に中公文庫から刊行されました。 ● 野尻抱影伝 素敵なカバー表紙。もちろん本の中身も素晴らしい。 本書を世に紹介したく、刊行された直後にアマゾンにブックレビューを書きました。 やや長いですが以下のとおりです。
● 大空さん自叙伝のこと 考古学・歴史専門の出版社である同成社から刊行された自叙伝「大空詩人」および「青空は限りなく」から、 その元となったオリジナルの手書きによる書物が存在することを知りました。 2006年5月に本記事を公開してから1年後の2007年5月、有名な古書店から古本を手に入れました。 この商品ランクだと古本ではなく古書と言うのでしょう。 私の蔵書のなかで最も高価な本となりました。 見た目雰囲気の通り、活字印刷ではなく、わら半紙にガリ版刷りなのです。 本サイトは意識の高い小学生からファンがいらっしゃるので説明が必要です。 わら半紙はリサイクル品の低価格ランクの用紙。 色は白とかグレイではなく、黄土色というか稲わらの色でした。 ガリ版は、ロウ引きされた薄い和紙に鉄のヤスリ状板の上で鉄の針が付いた筆記具(鉄筆と言う)で ひっかいて文字を書き、謄写版と言う簡易印刷機で紙に文字を転写するスタイルです。 ラップの芯くらいの大きさのローラーに黒い粘度の高いインクをのせて、一般的には手作業で印刷したものです。 おそらく、昭和40年代までは、学校などの教育現場では現役だったと思います。 テスト用紙やお知らせのプリントはすべてガリ版だった時代がありました。
大空さん自叙伝 オリジナルの稀覯本 そんな簡易印刷たるガリ版刷りの本書の存在感には圧倒されます。 なにせ永井叔自身による手書きの文字そのものですから。 手書き文字にはやはり人間の想いが込められています。
表紙を見てみます。 エスペラント語と言えば、1960年代の高校にはエスペラント語研究会とかのブカツがあったことを思い出しました。 英研とか映研、社研に落研とかも。 いま時の高校にエスペラント語のサークルとかあるのかは承知していません。
大空さん自叙伝 No. 1 〜 No. 4 四冊揃い
大空さん自叙伝 No. 1
大空さん自叙伝 No. 2
大空さん自叙伝 No. 3
大空さん自叙伝 No. 4
ページ数は、序から目次、本文、奥付、正誤表を含めた紙の枚数を実際に数えた値です。
重量はデジタルスケールで実測、サイズも精密スケールで実測しました。
ちなみにここで紹介している史料ですが、 本の見返しに書かれた謹呈先の名前と、栞代わりにはさんであった5円はがきの宛先 (霞が関の日弁連気付)から、前オーナーは人権派の弁護士ということがわかりました。
大空さん自叙伝 No. 4 の表紙は永井叔による手彩色が美しい 各巻 550ページから 670ページほどの重量感のある大作。 全文ガリ版刷りのため、写真はホンモノの印画紙が貼り付けられています。手作り感が素晴らしい。 山田耕筰や美空ひばり嬢とのツーショット写真など歴史的にも興味深いアートディレクション。 ユニークな手書きの自画像イラスト入りで、限定版か私家版の美術書としてみても価値が高いと思います。 用紙はわら半紙のほか、広告の裏紙とか包装紙の裏紙も一部で使われています。 松坂屋デパートの包装紙の裏紙が確認できました。 分厚く重たい本の束に触れると、なにがなんでも本を作るぞという執念と迫力が伝わってきます。 本ページの写真画像は、画像上でクリックすると大きいサイズで表示します。 ● あとがき 本記事は2006年5月に公開しましたが、カメラファンや天文愛好家の枠組み以外の、 日本近現代文学系の本格派の方々からのアクセスやお問合せが続いていますので、 2021年10月に「その後の話」として記事後半に近況を追加しました。 再撮影可能な画像は、すべてニコン Z システムで撮り直して差し替え、さらに新規画像を追加しました。 大空さん自叙伝 No. 1 〜 No. 4 四冊揃いについては、情報がほとんどないため、 物理的に計測し目で確認できる範囲で概要をまとめてみました。 → 元の記事に戻る
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