March 2006, Nikon Kenkyukai

Nippon Kogaku's super rare vintage telescope

March 18, 2006
Nikon Kenkyukai Tokyo Meeting
Very Super Rare
Vintage Telescope
Historic Nikon Material

ニコン研究会 2006年3月

日本光学の歴史的天体望遠鏡

光學器械設計製造
日本光學工業株式會社
東京芝區三田豊岡町

重厚な揮毫がプレートに彫り込まれています。 3月のニコン研究会は、日本光学の歴史的天体望遠鏡の紹介で始まりました。 日本光学製天体望遠鏡コレクターの猫洞まこと氏が持ち込んだ望遠鏡は、 博物館クラスの歴史的望遠鏡です。

頑強かつ美しい専用の堅木製収容箱がどんと置かれた

中からていねいに歴史的望遠鏡を取り出す

鋳鉄で造られた頑丈なフォーク

スムーズなエレベーターハンドル

あまりにも高価だった日本光学天体望遠鏡

日本光学製3インチ小型天体望遠鏡。 2インチと3インチの天体望遠鏡が市場に出たのが、大正9年(1920年)のこと。 日本光学が、東京市小石川区原町120番地の本社から、 東京市芝区三田豊岡町13番地に移転したのが大正13年(1924年)5月1日となっています。 この年表から製造年代は、大正末から昭和の初期と思われます。 製品は天文台に設置するような天体望遠鏡を、そのままスケールダウンしたものだったのです。 小型というだけであまりにも高価であり、アマチュア向けの製品ではなかったようです。

現在でもビクともしない頑強な架台と木製三脚、 錫箔で空気分離されたアポクロマート対物レンズはいまでもカビひとつなく、 純正ニコン製アイピースと連携してきわめて良好で安定した視界を結像します。 斜めカットのフードと地上プリズムがセットされていることから、 地上望遠鏡と天体望遠鏡を兼ねていた製品だったことがわかります。

大正14年のカタログを見てみますと、3インチ天体望遠鏡の価格は、木製三脚付きが破格の500円。 現在の貨幣価格に換算すると、これは比較スケールが難しい話ではありますが、 約300万円くらいでしょうか。 ちなみに、3インチ天体望遠鏡の金属製三脚付きモデルは600円でした。 とても趣味で1台購入、というわけにはいかない価格だったのです。

地上プリズムと回転ターレット式のアイピース機構

斜めカットのフードと非常に精度の高いバランスのよい造りはさすが

重厚で重い金属製対物レンズキャップとファインダー部

歴史的アイピースとカメラアタッチメント(ただしS型用)

野尻抱影と日本光学

大正時代から昭和の初期にかけて、日本の天体望遠鏡事情を研究する上で、 キーとなる人物が野尻抱影先生(1885-1977)であります。 しかしながら、著書にかんする情報は得られるのですが、 先生が愛用した天体望遠鏡のことは、 古い文献にあたっても細かい話はまったく見つけることができません。 このあたりに詳しい専門家および研究者の方々に協力をいただき、 ほとんど知られていない事実を収集してみました。

この世界の専門家である、 株式会社五藤光学研究所の元執行役員、児玉光義氏にご指導いただきました。 現在、児玉さんは五藤光学で科学教育(SE: Science Education)を担当されています。 児玉さんは大正時代から昭和初期の天文の文献、 とくに青少年向けの科学雑誌にたいへん詳しく、 ていねいにお話いただいたので概要を公開したいと思います。

野尻抱影先生。 「宝島」の翻訳で有名な英米文学者であって、冥王星を命名し、 天文に関する著作を多数残しています。 野尻抱影先生が自分の勤めている研究社に気兼ねをして、 弟の野尻清彦(後の大仏次郎)の訳名で「宝島他三篇」を改造社から出版したのは、 昭和3年のことです。 初版は破格の18万部でした。 その印税は多額であり、植木屋に一ヶ月ほど庭の手入れをさせ、 ステンドグラスの電気スタンドやスコッチウィスキー(キングオブキングス) などを購入たとのことです。 そして一番のお気に入りで思い入れの購入品が、 日本光学製の4インチ屈折天体望遠鏡だったのです。 望遠鏡が届いたのは、昭和3年7月21日。 価格600円余は当時でもあまりに高額な買い物だったことがわかります。

日本光学の4インチ屈折天体望遠鏡は、口径4インチ(10cm)で、 カール・ツァイス社の4インチの望遠鏡を参考に製品化されたものです。 野尻抱影先生が購入された製品が第1号で、レンズ枠に101と刻まれています。 抱影先生は、小説「宝島」に出てくる黄銅製の海賊砲の異名を取って、 筒に近い黒い帯に「LONG TOM」と彫刻させました。 ロング・トムは昭和3年の夏から天空を見つめることになります。

野尻抱影先生の愛機ロング・トムとは、どんな形をした望遠鏡だったのでしょうか。 また、当時どのような情景で天体観測していたのでしょうか。 写真は残っていないのでしょうか。 児玉光義氏は、ニコン研究会大正期天体望遠鏡研究プロジェクトのために、 なんと野尻抱影先生のご遺族に連絡を取ってくださったのです。 そして児玉さんのご尽力により、 当時の写真をニコン研究会HPに特別に掲載することを 許可していただくことができたのです。

野尻抱影先生とロング・トムそして大空詩人永井叔
Photo: Copyright (c) 2006, Hoei Nojiri, Japan, All Rights Reserved

すばらしい、貴重な歴史的写真です。時代は戦前。昭和15年。 野尻抱影先生と夏の夜、天文観測につどう青年少女。 マンドリンを弾く伝説の吟遊詩人永井叔。 この写真の大きいサイズの画像と詳しい解説はこちらをご覧ください。

必見 → 野尻抱影先生とロング・トムそして大空詩人永井叔

お願い: この写真画像は、野尻抱影先生のご遺族の許可を得て、 特別に掲載させていただいておりますので、二次利用や流用、掲載を厳禁いたします。

生きているロング・トム

ロング・トムは現存しているのでしょうか。 野尻抱影先生が亡くなってしばらくは、先生が晩年を過ごされた、 東京は世田谷区上用賀の五女英子さんの嫁ぎ先である堀内彦男邸にありました。 その後、横浜の港の見える丘公園にある大仏次郎記念館に委託され、 現在もこの記念館に保管されています。

2006年夏(7月25日〜8月31日)に、東京・町田市立博物館の夏休み特別企画でロング・トムの現物が展示されました。 詳細は以下の通りです。

町田市立博物館
夏休み特別企画「星空にあこがれて−プラネタリウムと天体望遠鏡−」
展示内容:
「プラネタリウム」「天体望遠鏡」「レンズと隕石」「前近代の日本の天文学」 「野尻抱影の世界」という5つのコーナーを設け、様々な角度から星の魅力が紹介されました。 日本で唯一の在所隕石、館外初出展の野尻抱影氏愛用ロングトム、 氏自筆の七夕短冊、希少な中村要製作屈折望遠鏡は必見でした。

東京・町田市立博物館
(撮影年は2006年8月)

大正時代の天体望遠鏡事情

文学研究者の目からみた戦前の天体望遠鏡事情を知らないと、話は完成しません。 気鋭の科学文学研究者である文芸評論家の湯浅篤志氏にご教授いただきました。 ご存知の通り湯浅篤志氏は、 誠文堂新光社が発行しているムック「おとなの工作読本」に、 「夢見る科学の時代」というエッセイを連載されていますので、 ご覧になっている方も多いと思います。 大正期の雑誌文学に興味のある方ならば、 『新青年』研究会で活躍されている研究者としてご存知でしょう。

湯浅さんは、大正時代の文学が主な研究対象で、 最近では大正時代のアマチュアが用いる屈折望遠鏡について研究されています。 望遠鏡にかんする文献がなかなか見つからなくて困っているとのことですが、 いろいろ情報をいただくことができました。

当時の東京天文台の技師であり、 東亜天文同好会(当時)の一員でもあった古川龍城氏の書いた 『天文界之知嚢』(大正12年)に興味深い説明が出ています。 巻末の付録「望遠鏡の手製法」に、 「第三類 写真兼用対物レンズは、之を購入するにはダブルレンズとか 三枚合せとかを附加し写真兼用なる事をも注意し、同様に注文すればよい。 日本光学工業株式會社東京支店(東京芝豊岡町)で製造する。」とあることです。 日本光学の名前が挙がっているのですが、どのような経緯なのか、よくわかりません。

古川龍城氏は、『子供の科学』大正14年2月号で、 日本光学の望遠鏡の仕様書を掲載していますので、 以下にその部分を引用させていただきます。

「誰にでも出来る望遠鏡の作り方」古川龍城
(『子供の科学』大正14年2月号)

終りに正式に望遠鏡を造らうとする人のために 日本光學工業株式會社の設計部長近藤徹氏から頂いた、仕様書を次にのせておきませう。

 筒先レンズ 直径五十三ミリメートル 焦點距離五百ミリメートル 金物入 代價金二十六圓
 これに対する接眼レンズは、次のやうです。
 焦点距離     倍率   代價(金物入り)
 十八ミリメートル 二十八倍 十二圓
 十二、五 同   四十倍  同
 九    同   五十五倍 同
 三十   同   十七倍  二十圓
 四十   同   十二倍半 二十五圓
右の如きレンズの組合せで 色々の倍率の物が出来ますが、倍率が少なければ、 像がはつきり見える得點があります。
今若し、これと同じ太さの望遠鏡の、ちやんと拵へ上げてあるのを、 同會社から買ひ入れようと思へば百八十圓又は二百三十圓からします。
以つて、手製法の安くつくことが解るでありませう。

また、中村要氏が大正15年10月に出版した『趣味の天体観測』のなかでは、 「小口径の望遠鏡でさえ日本に於ては殆んど総てを海外より輸入しなければならない現状であつて、 素人にとつては望遠鏡の購入は甚だ面倒である」とあります。 海外のメーカーでは、英クックや米のクラーク、ブラシアーをあげていますが、 あまりに高価であるとし、小口径の素人用にオツトエーやワツトソンなどをあげ、 日本における代理店を紹介しています。 古川龍城氏もまた、中村要氏と同じように既成の屈折望遠鏡は海外に注文するか、 代理店に頼むかと記していました。

昭和天皇と日本光学望遠鏡

日本光学製望遠鏡の話題では、 『子供の科学』昭和2年9月号に、 五藤斎三氏がお書きになった「天文学の母 天体望遠鏡の昔と今」が掲載されています。 望遠鏡の写真には、「聖上御用四吋半屈折望遠鏡」とタイトルがあり、 記事には 「畏くも科學に關し御造詣の深く渡らせらるゝ聖上陛下には 昨年其東宮御時代に國産の四吋半屈折望遠鏡を御買上あらせられ 筆者はその御上納の事に關係したのであるが 之は斯學御奬勵の大御心とも拜察せられるべきで 感激に堪へぬ次第である。」とありました。

昭和天皇が使った4インチ半屈折望遠鏡は、 ロング・トムの原型あるいはプロトタイプと推定されるモデルです。 ここで、再び、五藤光学の児玉さんに登場いただき、昭和天皇の望遠鏡とロング・トムを 考察してみます。 まず、五藤斎三という人物は、ご存知の通り、当時日本光学の社員であり、 後に退社して五藤光学研究所を創業した人です。 昭和天皇の望遠鏡は、『科学画報』大正15年9月号に詳しい記事が掲載されております。 望遠鏡の外観写真とともに、説明文があります。 原文のままここに引用させていただきます。

昭和天皇の望遠鏡 (『科学画報』大正15年9月号)

畏し大御心

申すもかしこき極みながら我が摂政宮殿下に於かせられては 特に科學に関して深き御興味を御寄せあそばされ、 恐れながら生物學等については、専門學の域に在られられるやう漏れ承はります。
最近 殿下には進んで天文學の御研究に進ませられるやにて、 こゝに掲げた四吋半の屈折望遠鏡を日本光學工業株式會社に命じて特にお作らせになりました。
この望遠鏡は同社の五藤技師の謹製にかゝるもので、影像直立プリズムを備へ、 且つおつきのものが、 同時に傍らより同じ星像を見ながら御案内申し上げることの出来るやう特に設計せられてゐます。
其後漏れ承はる所によれば那須の御別邸にも御持ちになるそうで、 御側近のかたがたの御案内をまたず、御自ら度度御観測遊ばすそうです。

『科学画報』大正15年9月号より引用(原文のまま)

続けて、五藤光学の児玉さんに写真を検証していただきました。
巷では、日本光学において4インチの天体望遠鏡は数台製作され、 0号機が東宮御所に献上され、 1号機が野尻抱影氏のところに納入されたということですが、 0号機は試作品の番号ですから、あるいは4インチ半で試作され、 製品化するときに4インチに変更されたのではないかと密かに考えております。 因みに、ロング・トムと昭和天皇の望遠鏡の写真を比較すると、 ロング・トムにはフードがなく、ファインダーも黒い色のものが付いています。 しかし、昭和天皇のものには、白いフードが付いており、ファインダーも白くなっています。

ロング・トムは カール・ツァイス社の4インチ地上及び天体観測用望遠鏡を参考にしたものと言われています。 それを裏付ける資料として、 昭和3年1月1日発行の『科学画報』の裏表紙に掲載されたカール・ツァイスの広告をご覧ください。 これがロング・トムのモデルとなったカール・ツァイスの望遠鏡です。 エレベーション付きの経緯台の架台がそっくりであることが分ると思います。

ツァイス望遠鏡の広告 (『科学画報』昭和3年1月号)

優美な科学製品日本光学天体望遠鏡の端正な姿

紙ものスーパーコレクション

さて、熱いディープな望遠鏡談義のあとは、例会にもどりましょう。 ニコンコレクションで難しいのは、小物と紙ものと言われています。 ニコン紙ものでも、ニッコールクラブ会報の最初期のものは、 探索が困難なものの一つです。

ニッコールクラブが発足したのが1952年。 翌1953年にA4版の格調高い表紙の会報「NIKKOR」No.1が発刊されました。 この会報は、1956年のNo.6まで計6冊が発刊され、 各号ではニッコールレンズによる作品やニコン製品等が紹介されています。 1957年には、タブロイド新聞のような「ニッコールクラブ会報」 第1号が発行され、年に4回会員に配布されました。 翌1958年には、現在の会報と同じA4版のスタイルとなり、 現在に至っています。

これらは、資料そのものの希少性に加えて、内容でも貴重な情報が満載なのです。 米国のライフ誌の創刊号。 表紙を飾ったのは、伝説の女流写真家マーガレット・バークホワイト。 大型写真機での活躍が有名ですが、 朝鮮戦争では小型カメラ・ニコンを首から下げ、 従軍写真家として戦火を取材しています。 NIKKOR 第1号(1952年)には、 ニコンSを持ったマーガレット・バークホワイトの姿が輝いています。 会報26号(1963年)には、 三木淳氏によるダンカン氏撮影のエピソードのオリジナル記事が掲載されています。 どれも貴重な歴史的写真資料です。

ニッコールクラブ最初の会報 NIKKOR 第1号 1953年

朝鮮戦争でニコンを使ったマーガレット・バークホワイト NIKKOR 第1号より

ニッコールクラブ会報の第1号と第2号 1957年

三木淳氏によるダンカン氏撮影のエピソード(会報26号 1963年)

貴重な紙もの資料を分析するニコン研究会

深海鮫・ニコンS・南極物語

「写真工業」2006年3月号。 ニコン研究会の会員は、この号を全員購入しました。 お目当ての記事は、 富山大学名誉教授中井学先生の特別記事「ニコン神話の研究−ニコンS論考−」です。 厳寒の朝鮮戦線で、すべてのカメラが凍って動かなくなったときに、 ニコンSだけが動いたことに強く感動したハンク・ウォーカー。 ニコン神話が生まれた瞬間です。 中井先生は掲載記事で、スクアランの境界膜による潤滑性能を検証しています。

スクアランは深海鮫の肝臓から採ったスクワレン(Squalene)を素材にしています。 耐寒仕様ニコンと南極物語を研究するには、辻本満丸博士を知らないと話になりません。 スクワレンを世界で初めて発見したのが日本の辻本満丸博士なのです。明治39年のことです。 耐寒仕様ニコンは、第一次南極観測隊のために当時の日本光学が用意しています。 どういう側面で、誰がこのニコンカメラを使ったのでしょうか。 第一次南極観測隊の資料を収集している秋山満夫が、いくつかの文献資料を持ち込みました。 スポンサーであった朝日新聞社のアサヒグラフでは特集が組まれ、 写真が豊富に使われています。 精査しましたが、残念ながらニコンを持ったり構えている写真は特定できていません。

生きていたタロ・ジロが日本に帰り、テレビ出演したときに、 テレビ局でタロ・ジロを世話したのがニコン研究会会員の小秋元龍さんです。 当時の歴史をプレスの目で見てきた小秋元さんには、 古い写真資料をもとに貴重な話を聞かせていただきました。

深海鮫・ニコンS・南極物語。 カメラを語るには総合的な知識と、歴史的背景をかみくだくこころが必要なのです。

写真工業2006年3月号と1956年6月号

第一次南極観測隊の記録は朝日新聞社の独壇場

第一次南極越冬隊員を確認する小秋元特派員

絶版のニコンマニュアル

ニッカにニッコール

さて今月も、中身の濃いパワフルな話題で盛り上りました。 テーブルの上には会員のお道具があります。 さりげなく、ビドム付きニッカにニッコール。 ライカマウント5センチF2.0レンズは、806シリーズに811シリーズ、 それに5008シリーズが揃っていました。

ニッカにはニッコールレンズ


謝辞:
野尻抱影先生とロング・トムの研究については、 以下の専門家および研究者、また専門ウェブサイトの方々に多大なるご協力をいただきました。 あつく御礼申し上げます。(ご所属等は2006年当時のものです)

株式会社五藤光学研究所 児玉光義様
文芸評論家 湯浅篤志様
日本ハーシェル協会 角田玉青様 「天文古玩」
(調査協力・東日本天文資料センター)
ウェブサイト「昔欲しかった天体望遠鏡」様

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