APO Nikkor 455mm F9 in Japanese Tea Break

極箱つき一式揃い Nippon Kogaku Japan銘
(撮影年は2001年11月)

レンズ道楽入門

「観賞用レンズの定義」については誰も提唱すらしていないし、 「レンズ道楽の時代と変遷」も未だかつて論じられていないのに、 きわめてコアな、ごく少数しか属していない限られた枠組みの世論を励起・覚醒させるつもりで書いてみる。

アポ、つまり、アポクロマートのニッコールと冠した唯一のレンズがAPO Nikkorだ。 バカラのクリスタルも茶道具だつた。 深い道。マニヤックな岡倉天心先生のことだから、 きっとアポニッコールを景色として茶室に置いたのかもしれない。

銘のない茶碗でも、色があれば使う。姿あれば、それで宇宙観のできあがり。 おおらかで白いのんびりした緊張のない茶碗を置いてみた。 日本のタタミ・カーペットも、これは気分でレンズだ。 障子の外にある光も紙を通過すると情になる。 音もひかりも、しずかで、世阿弥は時空を超えてなにを言つたのか。

「初心忘れろ」とは何を意味するのか。 畳に座して、そう型を気にせず煎茶を飲めば、 アポニッコールを景色に置いた亭主のこころづかいをかんじる。

写真製版用レンズ

さて、これは、アポニッコール 455mm F9だ。 このレンズはシリーズの中では後期となる1969年から1970年の初めに発売になったようだ。 1969年1月の価格表にはまだ掲載されていないが、 1970年3月のセールスマニュアルに掲載されている。

アポニッコールは写真製版用の、いわゆるバレルレンズと呼ばれている大型のレンズである。 このレンズ、今となっては中古カメラ市場でもよく出てくる。 印刷会社が放出というか処分したものが流れるのだろう。 だから使い込まれたものが多い。 木箱に入っていても、付属品が欠落しているものがたくさんある。

もちろん実用で、レンズを使いこなしたいという方なら、 付属品がなくても十分なのでお手ごろ価格での入手を期待したい。 しかし、これが、お道具となると、状況が変わってくる。 実用・実務レンズであるがゆえに、未使用品がきわめて少ない。

ニコンは製版レンズビジネスを1990年代に入る前に見切りをつけたようである。 市場に出てくるアポニッコールは古いものでは、 大東亜戦後すぐの昭和20年代なんてものも出てくる。 新しいものでも30年近くは経過しているレンズなのだ。

下の画像は2001年2月当時に、このレンズが米国で売りに出た時の商品写真である。 今のデジタルカメラの基準からすると、画像サイズが小さく、 画質も貧弱であるが、これでも当時はシャープで鮮明な画像だった記憶がある。 米国からEXPRESS MAILの梱包テープが無造作にベタベタの箱が4月に届いた。

米国で売りに出た時の商品写真
(2001年2月当時に収集した画像)

EXPRESS MAILで米国から日本に到着した時の荷姿
(2001年4月)

アポニッコール図鑑

産業用レンズのなかでもアポニッコールはポピュラーなレンズである。 しかしながら、販売当時の新品の姿を知る人は少ない。 ネットで検索しても、アポニッコールの完品の姿が見えてこない。 特に付属品の説明がなされていない。 読者の参考のために、図鑑的に見ていただけるよう、カタログ写真風に撮影した画像を掲載してみた。 きっとどなたか、何かのお役に立てることだと期待している。

まずは白木にニス塗りの非常に美しい木製格納箱から見ていただこう。 画像はクリックすると大き目のサイズの画像を表示します。

木目が美しい木箱格納箱

木材と金属パーツの調和が素晴らしい

よい仕事ぶりを実感する天板の木目

シンプルだが実直なデザインの銘板

新品デッドストック品の真の価値

新品デッドストックで残っていたものは、 販売されていた当時の形態を示す現物史料、あるいは標本として価値がある。 どんな意図をもって製造し販売されていたのか、完品を見ること、確認することは重要である。 なによりも当時の雰囲気を知ることができる。 雰囲気は技術を語る上で最も重要な学術的な要素である。

お道具としてのアポニッコールのお約束、つまり完品を構成する付属品一式は以下のとおりである。

− 木製格納箱 (白木のニス塗り木箱、金属製銘板付き。内装一部ビロード張り)
− 差し込み絞り板 (真中に小さい穴のある板。5枚)
− 差し込みフィルター挟み (大きい丸い穴のあいた板。5枚)
− 蝶番付き前キャップ(開閉できるフタが付いた前キャップ)
− 後キャップ(金属製のリアキャップ)
− レンズ座板 (一般的には座金と言われているもの。周りに6つのネジ穴)
− 専用ボルトナット (座金取付け用。6組)
− 検査合格証(通称サガワカード。有名な Sagawa さんの署名入り)
− シリカゲル(ニコン銘の入った乾燥剤)
− ビニール袋(ニコンのロゴが入ったもの)

ここで紹介するのは、米国の倉庫に眠っていたデッドストックの新品だ。 ビニール袋までロゴ入りのオリジナル。 木箱のニスは日焼けしていない。

オリジナルの姿

ボルトナット、検査合格証、シリカゲル

差し込み絞り板と差し込みフィルター挟み

鏡胴には絞り目盛りが F64、F90、そして F128 まである

内箱には差し込みフィルター等アクセサリー用の溝が切ってある

アポニッコールを実際に撮影で使用する場合には、レンズ座板が付いているものが望ましい。 レンズ座板とはニコンの表記であって、一般的には座金(ザガネ)と言う方が多い。 レンズを写真撮影装置(カメラ)にマウントするときに使う。 大型カメラのレンズボード(金属製または木製)に座金をボルトナットで取り付け固定すれば、 すぐにでも撮影が可能となる。

レンズのマウントがライカL39スクリューマウントだったら、カメラとの装着は簡単だ。 だがしかし、こういったバレルレンズは径が大きい。 APO Nikkor 455mm F9は径86ミリ・ピッチ0.75ミリのネジマウントだ。 座金がないとそう簡単にはカメラに装着できない。 この座金が付属していないと、まず座金単体では出てこないし、 座金だけを特注すると、かなりやっかいなことになる。 結局は、座金付きを求めたほうがお得ということになる。

付属品にはほかに、 差し込み絞り板(差し込み絞りをユーザーが自分で工作できるようにした素材)が5枚ほどセットされている。 さらに、差し込みフィルター挟み(ゼラチンフィルター用のフィルター枠)が5枚セットされている。 レンズ鏡胴にあるスリットに挿入して使う。

差し込み絞り板

差し込みフィルター挟み

ゼラチンフィルターを挿入する薄い板金製のホルダー

ニコンボルトナット

レンズ座板(座金)をレンズボートに取り付けるための付属品(パーツ)である。 1960年代の製品には、ボルトナットが6組、それに木ネジが6本セットされていた。 1970年に入ると、ボルトナット6組だけとなった。 おそらく1960年代までは、レンズボードが木製の撮影装置を考慮して木ネジが付属されていたと思うが、 1970年以降は金属製のレンズボードが主流となったのだろう。 付属品をよく調べてみると時代が見えてくる。

検査合格証には T. Sagawa (Takeshi Sagawa、佐川 剛氏) の直筆サイン入り

検査合格証の裏面

ニコンシリカゲル

ニコンシリカゲルを集めているコレクターがいる。 もっとも収集の対象は、黎明期のレンジファインダーニコンの時代の、布袋に入ってミシンで縫ってあるニコンシリカゲルだという。 このニコンシリカゲルは1970年代の製品に入っていたものだから、和紙のようなパッケージ入りである。 とうぜん乾燥剤としての機能はすでに無い。でも捨てずに保存用袋に入れて、当時の雰囲気を知る史料として残している。

実務的な話であるが、著者の場合は、「フジカラー カビ防止剤」を愛用している。 むかしは「カビシャット」という商品名だった。 5g入りの小袋を1つか2つ、必ずレンズコレクションのプラケース内に入れている。 毎年というわけにはいかないが、定期的に量販店からドサリを買い込み、入れ替えている。 レンズ1本あたり50円とかの費用で極めて良いコンデションに保たれるので、保険料・安心料としては安い。

なお、ニコンにはこのシリカゲルへのこだわりがあり、2017年はニコン100周年記念の流れで、 ニコンFの絵柄がデザインされた「オリジナルシリカゲル乾燥剤」が販促品で作られた。 カメラ販売店でニコン製品購入者へのプレゼントとして配られたようだ。

鮮鋭かつダイナミック

話がいつものとおり大幅に横道にずれてしまったので、元に戻そう。

肝心の光学性能だが、写真製版のマスター用だけあって、 完全に3原色の色補正がされた本物のアポクロマートレンズだ。 4群4枚の対称型レンズ構成が引き出すパワーは、鮮鋭かつダイナミック。 なお、非対称型の3群4枚のアポニッコールも用意されているが、 これは写真製版用ではなく一般の撮影用との位置付けのようだ。 一般といっても写真館向けではあるが。

アポニッコールは写真製版や工業用複写レンズとして使われたが、 市中の写真場のカメラレンズとして使うことを当時の日本光学では想定して提唱している。 後年になって、このアポニッコールのコンセプトをベースに、 ビューカメラ用の大判撮影向けレンズが続々とラインナップされていく。

アポニッコールの最盛期は価格表に記載された製品ラインナップの数からすると、 1970年代がピークだったと推測する。 製品の販売は1980年代後期まで続いていた。 手元に、1987年1月付けの価格表があるので、事実は裏付けできると考える。

テクニカルデータ

APO Nikkor 455mm F9

−焦点距離: 455mm
−最大絞り: F9
−最小絞り: F128
−レンズ構成: 4群4枚 完全対称型
−基準倍率: 1X
−画角: 46度
−色収差補正波長域: 380nm〜750nm
−口径蝕: 0% (F16にて)
−歪曲収差: 0.00%
−画像サイズ: 770mm⌀
−原稿サイズ: 770mm⌀
−基準倍率における原稿から画像までの距離: 1820mm
−フィルター径: 86mm P=0.75mm
−マウント: 径90mm P=1.0mmのネジマウント
−重量: 810g
−付属品: 蝶番付き前キャップ、後キャップ、木製格納箱入
−付属品: 差し込み絞り板、差し込みフィルター挟み、レンズ座板、ボルトナット
−当時の価格: 掲載無し(1969年1月)
−当時の価格: 90,000円(1974年6月)
−当時の価格: 90,000円(1976年4月)
−当時の価格: 90,000円(1977年12月)
−当時の価格: 掲載無し(1987年1月)

アポニッコール455mm F9のレンズ構成図

レンズの重量のこと

日本光学が発行した玄人向け(企業、研究機関向け)の産業用レンズ・ ニコンセールスマニュアル(LENS DATA 1970.3)に掲載されているレンズの性能諸元によると、 アポニッコール455mm F9の重量は810gとなっている。

これはレンズ単体のみの重量であると長い間勝手に思い込んでいたが、 2018年の改版にあたり実際にハカリで計測してみた。 レンズ単体だと710gしかない。はたして810gとは何だったのだろうか。 製品の構成要素(レンズと付属品)の重量は以下のとおりである。 化学天秤ではなくお菓子作り用の家庭用ハカリでの計測ではあるが。

レンズ単体: 710g
前キャップ: 55g
後キャップ: 25g
レンズ座板: 45g

後キャップを除いて、 レンズ単体と、前キャップ、それにレンズ座板の重量を足すと810gとなる。 まさか、前キャップ(しかも蝶番つき)と座金まで含めてレンズ重量としていたとは。 なぜこのようにしたのか理由がよくわからない。 性能諸元のところに重量の定義を注釈してあればよかったと思うのだが。

それにしても、製品が登場して、世に流通して、 50年も経てから性能諸元の数値について言及するのも何でいまさらの感があるのは分かっているが、 ここで、この場で声を出さないと、 古い性能諸元のままの数値情報が後世に伝搬されてしまうので、それは避けたい。 との思いなので大目にみていただきたい。 性能諸元のすべての項目を計測し直すことは無理であるが、簡単に計測できる重量くらい実測するのはあたり前だろう。

午後の季節のない時間

お道具としての様式美をそなえている点では、現代でも十分に鑑賞にたえる。 置いてよし。ながめてよし。使ってよしのレンズだ。 名誉のためでなく、もちろんお金のためでもなく、 仕事をするために生まれてきたレンズだ。 たまには、いっしょに茶を飲んでもいいじゃないか。 玉露なら正座だが煎茶ならばお菓子もでてくる。 番茶もすてがたいが、じぶんで煎ったほうじ茶だったら、 それも正しい作法だ。なにも正座をしなくても、敬意はたもてる。

午後の、季節のないような時間に、むかしから日本人は茶を飲んできた。 だから日本光学のアポクロマートレンズ。本物のアポクロマートレンズ。 APO Nikkor 455mm F9。これは本物である。

岡倉天心先生と語る午後
(撮影年は2001年11月)

レンズのある日本の風景

蝶番付きのキャップが付いたレンズは一般の一眼レフ用交換レンズにはないと思う。 撮影時にはフタをパカっと開けて、撮影が終わったらピタリと閉じる。 夏の入口のような季節の中で、午前と午後の区切りの時間に、 光線がしっとり重たく廻る気配を求めてレンズを持って歩いた。 涼し気なコーティングに風にゆれる梢が映った。

Nippon Kogaku Japan

Apo-NIKKOR  1:9  f=455mm

2018年のあとがき

本コンテンツは2018年6月に全面改版してアップしたものです。
オリジナルのコンテンツは2001年11月に公開しました。 最初のコンテンツでは、レンズの画像は1枚のみでした。 和室の畳の上にレンズ一式を置いたものです。

2016年の見直しにあたり、パソコンの過去データを再確認していたら、 レンズを入手した当時の画像を見つけましたので、時代の記録として追加しました。 また、テクニカルデータを掲載していませんでしたので、正式資料から情報を引用し盛り込みました。

2018年の改版時には全面的に記事を書き直しました。 性能諸元を再確認、再検証し、レンズ構成図を追加しました。 画像については大幅に強化し、図鑑的に見ていただけるよう、カタログ写真風に撮影した画像を掲載しました。 2001年当時に撮影した画像と2018年に新たに追加撮影した画像が競演する形となりました。

MADE IN JAPAN

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Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2001, 2018