![]() EL Nikkor 360mm F5.6
Huge but Beautiful Photosynthetic Spectrum EL Nikkor 360mm F5.6 Nikon Photoengraving Lens ● エル・ニッコール史上最大のレンズ 散歩道に大型レンズ用の展示コーナーがあった。なかなか気が利いている。 ちょうど写真製版用の大型レンズをかついで散歩に出たので設えてみた。 エル・ニッコール史上最大のレンズである。 日没近い色温度が 2000ケルビン位に落ちた重たい光線の下によくなじむ。
![]() レンズが置いてある日常的な景色
![]() EL ニッコール 360mm F5.6 写真製版用レンズ カメラが趣味と言うと「どんな写真撮ってるの?」とよく聞かれたものだ。 「レンズの写真を撮ってます」と答えると、みな「え?意味不明」。 もちろん仕事ビジネスの場であれば、そんな理解しにくい話はせずに 「ファミリー写真ばかり撮ってます」とかいうわけであるが、 これが同じ方向性を持つ趣味の方が集まる場となると正確にお答えしていたものだ。 それでも被写体がレンズという方と遭遇したことはなかった。 しかし昨今ではヨーロッパを中心に、海外で同好の”趣味のよい方”が出現しだしており安心である。 なにが安心安全なのかここでは議論の対象外とする。
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エル・ニッコール史上最大のレンズ 茜色に近い弁柄色の袱紗の上にレンズを置いた。舞台は枯葉の舞う冷涼な時間だ。 光線の具合がよい。レンズ撮影日和である。 曲率が大きい前玉の硬質なコーティングにオータムカラーのルミエールが映える。 ニコン引き伸し用レンズ「EL ニッコール」の製品カタログには写真製版用との用途説明が添えられている。 写真製版用のラインナップは、240mm F5.6、300mm F5.6そして 360mm F5.6の3本だ。 最後に君臨しているのが EL ニッコール360mm F5.6である。 ● レンズが我が家にやって来た 2005年2月。レンズが我が家にやって来た。 Warminster, PA, U.S.A. に所在する工業産業法人からである。 PAはUSPSコードでペンシルバニア州。 2020年のアメリカ合衆国大統領選挙で「激戦区ペンシルベニヤ」と報じられた。 断りもなくいきなりペンシルバニアからペンシルベニヤになった。テレビも新聞も。 2020年11月のことだった。 それはさておき、2005年の2月にレンズが我が家にやって来た。到着記念に写真を撮った。 サイズ比較のために古いニコンF2を置いた。このレンズはかなり大きい。
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レンズが我が家にやって来た
![]() 風呂敷に包まれたレンズ ニコン研究会でお披露目をした。 四角いハコが入った風呂敷包みを抱えて銀座線に乗った。 見た目とサイズ感から言ってちょうどお骨である。 2006年9月の例会だった。 テーマの一つが EL ニッコールだったので、兄弟が集まった。
![]() EL ニッコール 360mm F5.6
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サイズを比較してみた 左下にある小さいレンズが EL ニッコール 63mm F3.5である。 一般に写真の引き伸し用レンズといったらだいたいこのサイズだ。 その上にあるのが EL ニッコール 210mm F5.6。 これでも引き伸し用レンズとしてはかなり大きい部類に入る。 そして右に鎮座しているのが EL ニッコール 360mm F5.6。 並べて見るとやはり格段に大きい。 デカイと言った方がスケール感と臨場感が伝わる。 ● テクニカルデータ EL Nikkor 360mm F5.6
−焦点距離: 360mm
−発売時期: 1972年7月
重量について。カタログ値は 2,700g。
レンズのみをデジタルスケールで実測すると 2,582gだった。
ちなみに、金属製のレンズ前キャップが 71.5g。
同じく後キャップが 74.0g。座金は 107.0gだった。
![]() EL ニッコール 360mm F5.6 のレンズ構成図 ● 新品デッドストック デッドストックの揃い一式をご覧いただきたい。新品元箱付きの姿である。 紙製の元箱、型抜きされた発泡スチロール製の緩衝材、レンズ収納用ビニール袋、 金属削り出しの前後レンズキャップ、検査合格証(Nikon カードケース入り)、 レンズ本体、座金、座金用の専用ボルトとナットのセット小袋入り。
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EL ニッコール 360mm F5.6
![]() EL ニッコール 63mm F3.5 とサイズを比較
![]() EL ニッコール 360mm F5.6
![]() 検査合格証には T. Sagawa (Takeshi Sagawa、佐川 剛氏) の直筆サイン入り サガワカードで有名な佐川 剛氏(1921 - 1999)は大正十年生まれだ。 このレンズの製造シリアル番号から推測すると、おそらく1972年か1973年頃のサインと思われる。 佐川さんが51歳か52歳あたりの仕事だろう。勢いのある筆記体に自信がこもっている。 1960年代の初期の頃に比べて1970年代に入ったこの頃は、 佐川さんの字が太く大きくなっているのがわかる。 このあたりからも人の年輪が読み取れる。 1970年代の大企業では定年年齢は55歳だった時代だ。
![]() 検査合格証の裏面 筆記体といえばいまの時代、中学生は英語の時間に筆記体を習わないと聞いてひさしい。 ならばそのまま一生筆記体が書けないまま人生を終えるのだろうか。残念なことである。 小学生でローマ字。これはブロック体で習った。中学生になると英語は筆記体。 楽譜を書く五線紙のような専用の書き取り練習帳があった。 字がつながって流れる筆記体だと速く書ける。 そもそも万年筆は筆記体で書くための道具だ。 エンジニアが集まるビジネスの現場では、 米国のネィティブはみな子供っぽいブロック体で書いていたことを思い出した。 今となっては筆記体は古文書のくずし字みたいなものか。読めないし書けない。 話がそれてしまった。元に戻そう。 ● 鑑賞用レンズ このレンズで写真を撮ってみたい。 フルサイズとは言え極小の、35ミリフィルムフォーマットのミラーレス機で使うのはもったいない。 大きなイメージサークルを活かすには、ほんらいであれば、11x14 インチ判の超大型写真機にマウントしたいところだ。 しかしながら超大型写真機での使用はかなわず、 しばらくは観賞用レンズとして手元に置き、いっしょに暮らす決意をした。
![]() 木々を通す光線の下にレンズを置く
![]() 健康的なレンズのある暮らし レンズは美術品なので野外彫刻のように屋外に展示するのも趣きがある。 空気の停滞した防湿庫に幽閉されたままよりも、多少のホコリや植物全般の花粉が飛び、 微細な虫たちが生活している草木の上で鑑賞するのはレンズの健康にもよい。
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光と色彩は印象派 ポンと置いてさくっと撮ったような画像ではあるが、野外でのレンズの撮影はホコリとの闘いである。 シャッターを切る直前に、クロスで拭き、ブラシで払い、 カメラメンテ用の手動ブロアーでシュッシュッと飛ばしながら撮影している。 ● 新しいヴィンテージレンズ EL ニッコール 360mm F5.6は1972年(昭和47年)7月に発売された。 今となっては半世紀前の立派なオールドでヴィンテージなクラシックレンズなのである。 この世界のベテランのマニア様から見たら1970年代はつい最近のことであろう。 SNSでの発信にともない、本サイトは10代の方からもご参照が多く、大いにご支持いただいている。 彼らからすると、自分が生まれた年の30年前の話は江戸時代の感覚なのである。 しかるに前期高齢者から後期高齢者の方々においては、 自分が生まれた年の30年前は大正時代か明治時代なのが現実である。 クラシックカメラ、オールドレンズ、ヴィンテージレンズ、 それぞれ持つ人によって定義が変動することを理解しておきたい。
![]() レンズの風格 1970年代の古い製品カタログの文章にこめられた言葉が熱い。
![]() ガラスに映る世界感
![]() レンズは美術品 大きい目をした美人顔のレンズ前玉に情況が映る。 天に届く空のようすも曲率で表現されている。 サンルイのまるい宇宙のガラス・ペーパーウェイト(机上ガラス文鎮)のような精緻さ。 やはりレンズは美術品なのである。 ● コレクターズガイド コレクターがモノを蒐集する場合の作法は人それぞれだろう。 コツコツと自分の信念に基づき集める人もいる。 資金をふんだんに投入して大規模に集める人もいる。 それぞれご自分のスタイルでいくのが一番だと思う。 EL ニッコールはレンズの焦点距離ごとに全種類集めてもたかが知れている。 それでは集めにくいものを先に捕獲しようと探したのがこのレンズだった。 最も焦点距離が長く、サイズと重量も大型のEL ニッコール 360mm F5.6である。 さらにデッドストック未使用新品に限定した。 資源(おこづかい)が限られているので、あまりモノがポンポン出てきては困る。 このあたりの条件だとモノがほとんど出て来ないので、モノが出て来た時には対応できる。
![]() 製造シリアル番号 No. 700032 製造シリアル番号について読み取れる事実のみをまとめておきたい。 EL ニッコールの製品カタログに掲載されている EL ニッコール 360mm F5.6 の外観写真を確認してみた。 1973年版では、製造シリアル番号 No. 700193 のレンズが登場している。 1978年版では、製造シリアル番号 No. 700171 のレンズが掲載されており、 5年後のカタログではシリアル番号の若い製品が採用されたことになる。 合理的な推測を行うためのエビデンスがないので、事実の記載だけにとどめておく。 海外向けの英語版カタログ(Code No. 8212-02 KEC 803-150/1)には、 製造シリアル番号 No. 700230 のレンズが掲載されている。 同じく英語版カタログ(1985年1月版、Code No. 8C8-50-E01)には、 製造シリアル番号 No. 700267 のレンズだ。 ネットの情報では、NikonGearサイトの2017年12月の書込みで、 製造シリアル番号 No. 700290 のレンズの画像が紹介されている。
![]() Nippon Kogaku Tokyo
![]() LENS MADE IN JAPAN ● レンズポエム全開 おさえて淡々と書くつもりだったがレンズポエム全開の展開となってしまった。 そうは言っても、この日本国原産品特有のオーラを放つ端正な佇まいと対峙してしまうと、 思考回路のネジの 1本や 2本は緩むものである。吹き飛んでいるわけではない。
![]() 日本の美意識がレンズに宿る 自宅自然光スタジオで撮影した。 冬至も近いとなれば、太陽の南中高度は低くなり、色温度は叙情豊かな優しい色彩成分で構成されるようになる。 EL ニッコール 360mm F5.6の前玉は古代から続く黄金の輝きと、 静かではあるが目には見えない運動エネルギーを発振し、 このまま黙って奈良時代に戻り正倉院宝物として収まってしまうような風格と景色を有する。
![]() この世のものとは思えない美しく幽玄なレンズ ● No. 700011 中央ヨーロッパの国。スロバキア共和国の首都ブラチスラヴァから、 マルティン・モラオツィーク(Mr. Martin Moravcik)氏のコレクションを紹介したい。 スロバキアのマーチンさんのコレクションなのでただ者ではない気配を感じる。
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EL ニッコール 360mm F5.6 No. 700011
EL ニッコール 360mm F5.6 No. 700011 である。 この製造シリアル番号は、試作レンズを除くと、販売がスタートした第 1号レンズと思われる。 市場に出た製品のシリアル番号は No. 700001 ではなく、No. 700011 からスタートした。 1972年製造の最初期型で間違いないだろう。
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上等な漆塗りのようなブラックペイント鏡胴
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レンズ前玉のコーティングが美しい
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EL ニッコール 360mm F5.6 No. 700011
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重量感のあるレンズ後玉の風景
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EL ニッコール 360mm F5.6 No. 700011
● レンズの戦艦大和 近代史の中で、エル・ニッコールは1979年(昭和54年)6月を起点に大きく変貌した。 EL ニッコール 50mm F2.8N が1979年6月21日付けの1枚ものパンフレットに新発売として登場している。 新たに設計されたレンズとなりレンズ鏡胴の材質もリニューアルされた。 外観デザインがシンプルとなり現代的なテイストになった。 ざっくり言って、小型から中判フィルム用のレンズには末尾に Nが付与され、 鏡胴外装の材質は金属からエンジニアリングプラスチック製となった。 露光中に光取り窓から採光して絞り値の数字が明るく浮かび上がるギミックが仕込まれた。 大判フィルム用のレンズは末尾に Aが付与され、鏡胴の材質は軽金属製となった。 旧軍の重量級戦艦が現代のイージス艦に移行したようなものだ。
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最後のヘビーメタル弩級レンズ そして時代は1980年代のバブル景気の絶頂期。 カメラと言えば化学反応式のフィルムの時代だ。 そんな上昇気流の中でも、EL ニッコール 360mm F5.6 だけはリニューアルされずに、 古い服を着たまま騒がず静かに佇んでいたのである。 最新鋭のイージス艦が多数並んでいる基地に戦艦大和が停泊している情景そのものだ。 そんなエル・ニッコールも、フィルムからデジタルへの急速に進んだ栄枯盛衰の流れに漂い、 製品ラインナップから静かに消えた。2004年の終わりから2005年頃だっただろうか。 最終版と思える2004年8月25日付けのカタログ「EL-Nikkor」が手元に残った。 ニコンの公式アナウンスによると、 エル・ニッコールは2006年に販売を中止した(実質的には販売を終了)となっている。 ● 2023年のあとがき 本記事の初稿は2020年12月にリリースしました。 レンズを入手してから実に15年後に記事化したものです。
Copyright Michio Akiyama, Tokyo Japan 2020, 2023 |