Takateru Koakimoto

February 9, 2005
Mr. Nikon Legend
Spirit of Nippon Kogaku

Takateru Koakimoto

Takateru Koakimoto

故 小秋元隆輝氏 お別れの会

元日本光学工業株式会社取締役社長の小秋元隆輝氏が、 平成16年(2004年)12月20日に逝去されました。 91歳でした。
「故 小秋元隆輝氏 お別れの会」が、 平成17年(2005年)2月9日、東京會舘(東京都・丸の内)にて開催されました。

ミスター・ニコンレジェンド

小秋元隆輝氏は、昭和11年に日本光学工業株式会社(現株式会社ニコン)に入社されました。 戦前から戦中にかけて、陸海軍と共同で新技術の研究に専念されています。 それは、光学技術と電子機器を結びつける、 オプトエレクトロニクスの先駆けとなる新しい技術の研究でした。

終戦後は、カメラ用の電気露出計や光電素子の研究を続けられ、 35mm小型精密カメラ、ニッコールレンズの量産用性能測定機を開発しています。 ニコンスタンダードといわれる、 オーバースペックな厳しい検査基準の道を開いた技術者が小秋元さんなのです。 また、昭和29年に執筆・出版された幻の世界的名著「35mm精密カメラ」も、 数年前に復刻出版され、手にされているニコンファンも多いことでしょう。

伝説の光学技術者小秋元隆輝。ご冥福をお祈りいたします。

丸の内・東京會舘・玄関

ローズルーム

献花が始まりました

各界からたくさんの人が集まりました

元ニコン取締役会長の小野茂夫氏とニコン研究会の鈴木昭彦

小秋元隆輝氏 素顔と功績を偲んで(パネル展示)

ニコン・ヒストリカル・ソサエティ東京大会(1996年)
故福岡元社長とともに

追悼

ニコン研究会重鎮の小秋元龍さんの追悼文を掲載したいと思います。
小秋元さん、そうです、小秋元龍さんの叔父にあたる方が、小秋元隆輝さんなのです。

ニコン研究会での小秋元さんは、愛用のニコンSPフルセットで、 会員に撮影作法を示してくれます。 レンジファインダー・ニコンの操作の神髄。とにかく早い。正確。 海外特派員の経験が長く、歴史的事件をじぶんの目で見てきたプロフェッショナル。 いずれも使い込まれて、よく手入れされているニコンは小秋元さんの目です。

ときどき、元ニコン社長小秋元隆輝さんのお話を聞かせていただけるときがあります。 なんともカメラ好きな最高経営責任者だったことがうかがえます。 その前に、偉大な伝説の技術者だったわけです。 ニコン研究会・小秋元龍さんの追悼文をお読みください。

叔父・小秋元隆輝のこと

本日はご多忙中、叔父の「お別れの会」に参列を賜り厚く御礼申し上げます。
91歳まで人生を全うすれば長生きの方です。 でも、もっと話を聞いておけばよかったと残念です。 叔父との関連について少し書きます。

戦前の話

叔父は1936年に日本光学に入社しました。日中戦争勃発の1年前です。 1937年に日中戦争が勃発し、当時朝日新聞の特派員だった私の父は中国特派員となり、 日本軍の占領下に入った山東省済南市(Jinan City, Shandong Province)に支局を設立、 私達家族も1938年に同市に行きました。 夏休みの叔父が、我々家族の家に遊びに来たのはその頃です。

当時、日本光学はまだ自社でカメラを生産しておらず、 キヤノンにニッコールレンズを提供していた時代です。 叔父が持っていたのは、その頃のキヤノン、 ファインダーがびっくり箱のように飛び出すキヤノンです。 私の父は、タップリ出ていた特派員手当てでコンタックスII型を買い、自慢にしていました。 その頃特派員の間でライカがもてはやされていましたが、父はツァイス党で、 無理してコンタックスを買ったのだと思います。

父はいつも叔父のキヤノンに装着されているニッコールを眺めては、 「やはりレンズはツァイスだ」とからかっていました。 叔父は「オレのところのレンズも優秀だ」と反論するのが常で、 そのやり取りを聞くのは小学生だった私の楽しみでもありました。 革ケースに入れたコンタックスとキヤノンは、畳の上におくとちょうど戦車のような形です。 私と弟は、コンタックスとライカが入った革ケースを戦車に見立て、 ぶつけ合っては戦争ごっこをして遊んで、大目玉をくらったのも懐かしい思い出です。

叔父は常に私の写真の師だった

太平洋戦争中に大軍需工場となった日本光学は、 戦争が敗戦で終結すると苦境のどん底にあえぎました。 民生用製品に切り替える決断のもと、 全社員一丸になって苦闘していた時代を私はよく覚えています。 その苦しみの中から「ニコン」は生まれたのです。

叔父は1953年ごろ、「35ミリ精密カメラ」という本を書きましたが、 大学生だった私は作例写真のロケに同行して、35ミリ写真術を学びました。
1955年、私は外国通信社のPANA(Pan-Asia Newspaper Alliance)の東京支局に入社しました。 その通信社の社長は、米国でジャーナリズムを学んだ中国人、宋徳和(Norman Soong)氏でした。 叔父がその社長に私の推薦状を書いてくれました。

プレスカメラは、まだフラッシュバルブでシンクロするスピードグラフィック4×5が全盛時代でしたが、 社長は「これからは35ミリカメラにストロボがプレスカメラの主流になる」との持論でした。 そのため、PANA通信社のメーン・カメラは、 日中シンクロが必要な時だけフォクトレンダーのプロミネント(レンズシャッター機)、 それ以外はニコンS型でした。 ニコンS型のストロボ同調速度は20分の1秒でしたが、 我々は30分の1秒でストロボを使っていました。 日本にあるマスコミでニコンを使い始めたのは、多分PANA通信社が最初だったと思います。

1950年に始まった朝鮮戦争はその前年に終わりましたが、 PANA通信社からは多くの特派員がニコンを持って従軍しました。 1955年に、発売されたばかりのニコンS2がメーン・カメラになり、 これも発売されたばかりのコダック・トライXとの組み合わせは、 フォトグラファーにどれほどの恩恵を与えたか知れません。

その後、1964年に東京オリンピックが開かれ、 報道用カメラは一挙に35ミリ時代に突入し、宋徳和氏の持論は実証されました。

叔父は常に私の写真の師でした。

叔父が生きた時代とニコン

1957年、ソ連が初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げた頃、 私はテレビの世界に飛び込みました。 その後、いまのテレビ朝日(その頃はNETテレビ)には、 開局準備から定年で辞めるまで在籍しました。
1960年に北米、1962年から1963年に中南米、1965年ベトナム戦争、 1969年アポロ11号月に初着陸などの取材をしましたが、 いずれも叔父の手配で日本光学社有のニコンSPを取材用に借り出し、 自分のSPと併せて使用しました。

その後1975年にモスクワ特派員、1984年にロサンゼルス特派員を経験しましたが、 モスクワの「赤の広場」の革命記念日パレードの取材などでは、 私のニコンSPとS2の距離計カメラは、 世界の報道フォトグラファーの注目の的でした。 「そんなニコンがあるとは知らなかった。はじめて見た」 という報道陣が多かったのです。 その頃は、西側ではニコンFの全盛時代、ソ連・東欧圏のフォトグラファーは、 東ドイツ製やソ連製のカメラ使用者が多くいました。

「一眼レフはもっと進化するが、やがてフィルムはなくなるだろうね」 というのが叔父の予測でしたが、それは意外に早くやってきたというのが私の感想です。

叔父とニコンM型の思い出

太平洋戦争中、 叔父は日本光学で爆撃照準機と高射算定機の開発に当たっていたようです。 それは軍部には最優先の研究課題だったのでしょう。 1944年、戦争の終結一年前に、叔父にも召集令状が来て、 隣組の一同に歓呼の声で送られて出征したのですが、2、3日後には召集が解除されて帰宅しました。 海軍から召集解除の要求が強烈に出されたのではないかと思います。 子供心に、叔父は大変な仕事をしてるのだと言うことが理解できました。 そのことについて叔父は多くを語りませんでした。

戦後、まだニコンが海外に認められていなかった頃、 叔父は学生だった私に貴重なニコンM型を使わせてくれました。 それが、私のカメラ使用の最初でした。

叔父は常に私の写真の師でした。
もっと話を聞いておけばよかった。

2005年2月9日 小秋元 龍

叔父を語る小秋元龍さん

東京會舘

小秋元龍さんの愛機ニコンSP

メモリアルカード

「故 小秋元隆輝氏 お別れの会」には、ニコン研究会から 小秋元龍、タッド・佐藤、高島勝治、鈴木昭彦、猫洞まこと、秋山満夫 が参加させていただきました。

ミスター・ニコンレジェンド小秋元さん、すばらしい精密小型カメラをありがとうございました。

貴重な写真入りメモリアルカード

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