May 2010, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report

伝説の報道写真家ラリー・バロウズ

May 15, 2010

Tokyo Meeting

Nikon F2 Collection

35 Special

Robert Capa & Larry Burrows

ニコンF2コレクション

「目に青葉 山ほととぎす 初ニコン」
とむかしからよく言われていますが、五月はニコンなのです。
2010年5月のニコン研究会の例会。
メインテーマは、ニコンF2の機械的検証と、数字シリーズは35。
最初に、ニコンF2特集の、実機による検証がスタートしました。

ニコンF2モータードライブを持ち込んだ会員がいます。その数6台。
バッグの隙間にペインテッドライカM4が1台。
いつもながら、これがコレクションのすべてではなく、 カメラバッグに入ったのが6台+1台までなので、 6台+1台をお一人で持参されました。
また言ってしまいますが、体を鍛えていないとニコンファンはやってられません。

カメラバッグに入っていた6台+1台

各種モデルが6台揃うと壮観

F2にチビニッコールはご愛嬌

美しいニコンF2のプリミチブなフォルム

最初期型のニコンF2クロームボディでした

35スペシアル

数字をテーマにしたシリーズ。
今回は35です。
焦点距離35ミリのニッコールレンズは非常にたくさんの種類がありますが、 今回集まったのはいずれも個性的な35ものでした。

ニッコール35mm F2.8付きニコンFだけどシンクロがプロ改造してあります

なるほど赤い彫り込みは朝日新聞社仕様ですか

Sマウントニッコール付きのペインテッドライカ

35ミリレンズが付いたカメラです

F0.9の大口径の今まで見たことのない異様に美しいボケ味

もちろんこれも35ミリのニッコールレンズ(4×5判用)です

こんなチビレンズが理想的なマクロ描写をするのはさすが

コンデジ一眼にはやはりニッコールが似合います

龍さんのプレス・コーナー

数々の歴史に残る報道シーンの現場に立ち続けている小秋元龍プロに、 尊敬するプレスフォトグラファーを語っていただきました。
まず、テーブルの上に並んだ資料を見ていただきましょう。
世界大戦の前後にフォトジャーナリズムの先頭にいたのが米国のライフ誌。

ロバート・キャパのノルマンディー上陸作戦に従軍した写真はあまりにも有名。
史上最大の上陸作戦敢行のなか、必死に100数枚の写真を撮影したものの、 フィルム現像のミスで8枚しか残らなかったという。
実際はフィルム現像のミスではなく、フィルムを現像・定着し水洗いした後の乾燥、 つまりドライアーの熱で画像が崩れたり流れたのが原因らしい。
フィルムを見た暗室マンがよほど興奮してしまったのだろう。

ベトナム戦争の時代になると機材はニコンが主役となる。
小秋元龍プロの憧れは、英国の報道写真家ラリー・バロウズだったという。
フルメタルな報道機材で完全武装した彼の姿を見てみよう。 首から肩から、望遠系のレンズを付けた3台のニコンFに、 広角レンズを付けたM型ライカが2台。
当時、ベトナムに潜入した小秋元プロは戦場でラリー・バロウズを探したという。
しかし、ついに会えることなく、ラリー・バロウズは1971年に戦死してしまう。

小秋元プロの解説を聞くニコ研会員

アイゼンハワー大統領が表紙のライフは昭和19年6月号

写真ジャーナリズムの頂点にあるノルマンディー上陸作戦の記録

壮絶な音が聞こえるこの臨場感

いちばん有名なキャパの写真

戦争を記録したライフの仕事

小秋元プロに、 ロバート・キャパとラリー・バロウズのことを語っていただきました。

ロバート・キャパとラリー・バロウズのこと

第2次世界大戦は、 1939年にヒトラーのドイツ軍がポーランドに侵攻して始まりました。
ヒトラーの軍隊はまたたく間に欧州全土に攻め込み、 フランスを初め多くの国がナチス軍の占領下におかれました。

このころ、 ハンガリー出身の若き報道写真家ロバート・キャパはナチスを逃れて渡米し、 ニューヨークで失意の日々を送っていました。
所持金が25セントになったとき、 週刊誌コリアーズから一通の手紙が舞い込みます。
それはキャパに欧州の戦争を記録して欲しいと依頼する手紙でした。
輸送船団に同乗して英国に行ったキャパはここを基地にライフ誌とも契約し、 連合軍のノルマンディー上陸作戦を取材しました。
コンタックスで108枚撮影したネガはライフ誌のロンドン支局に届けられ、 興奮した暗室ボーイがネガ乾燥をミスして ほとんど全てのネガの乳剤が溶けてしまうという大ハプニングが発生しました。 生き残った8カットのネガのうち、兵士が上陸用舟艇から海岸に投げ出され、 首まで水につかって上陸する1カットはブレた写真ですが、 「そのときキャパの手は震えていた」の名キャプションで有名になりました。

1954年(昭和29年)、 毎日新聞は写真雑誌「カメラ毎日」創刊の事業としてキャパを招き、 日本を撮影させました。
このとき私は偶然、東京駅プラットホームで撮影中のキャパを目撃しました。
私はまだ学生でした。
キャパは50mm F1.4つきのニコンS型を構えていました。 ファインダーを覗いてすばやく距離をあわせると、 眼を離して被写体をにらみながら撮影するのです。
その後、インドシナ戦争が激化し、 キャパはニコンとコンタックスを抱えて東京からサイゴンに飛び、 前線で地雷を踏んで死亡しました。

それから1年後、 私はPANA (Pan-Asia Newspaper Alliance) という外国通信社の スタッフ・リポーター・フォトグラファーに就職しました。
そのころ、「Slightly Out of Focus」というキャパの自伝が日本で発売されました。
「ちょっとピンぼけ」という直訳が日本語版のタイトルです。 これは日本のマスコミ各社のフォトグラファーのバイブル的存在の本でした。
何処の社の写真部にもわれこそ日本のキャパと自称する名カメラマンがいました。
私の社にも「遠山キャパ」や「岡本キャパ」がいました。
デスクが「オーイ、キャパ、仕事だ」と怒鳴ると、 「アイヨッ」と数人が暗室から飛び出してきたものです。

ニコンFとライカで武装したラリー・バロウズ

第二次世界大戦最大の報道写真家の1人がキャパとすれば、 ベトナム戦争最大のスター写真家はライフの特派員ラリー・バロウズ(Larry Burrows)です。
彼はイギリス人で、1942年、 16歳でライフのロンドン支局の暗室ボーイに雇われました。
後年、ベトナム戦争でのスクープで名を挙げると、やっかみ半分のデマがはやりました。
それは、キャパの大事なネガを台無しにしてしまった張本人はバロウズらしい、 というもっともらしいデマです。 このデマはすぐ公式に否定されまました。
それほどバロウズの写真は迫力があったのです。

ベトナム戦争は第二次大戦と様相が異なり、 米軍の陸上部隊の兵士はヘリコプターで移動しました。
バロウズは海兵隊のYP13号へりに同乗し、 敵地の真っ只中に着陸して重傷者を救出する凄惨なストーリーをライフに掲載しました。
その記事は「One Ride with Yankee Papa 13」といいます。 「ヤンキー・パパ13号に乗って」という意味です。
米軍ではアルファベットをそのまま発音しません。 「Y」は「Yankee」、「P」は「Papa」といい、 聴き間違えたりいい間違えたりしないようにしています。

さて、私はベトナム戦争中の1965年にサイゴン(いまのホーチミン市)にいましたが、 ついに、大先輩のバロウズ氏にはお目にかかることが出来ませんでした。
彼が乗ったヘリはいわゆる「ガンシップ」というヘリで、 側面のドアを外し、地上射撃用の大口径機関銃を据え付けています。
バロウズは、機関銃の先端に金具を取り付け、 広角レンズをつけたニコンFを機内の機関銃手に向けて 戦闘中の兵士の表情をリモートで撮影する新機軸の戦闘写真を編み出しました。

キャパ、バロウズと私の接点は、こうしてついに交わることなく、二人とも戦死したのは残念です。

小秋元 龍

フルメタルジャケットはライフの特派員ラリー・バロウズ

ラリー・バロウズのこと

ロバート・キャパは、日本語で出版された著書もあることから、 少し写真をやった人なら知らない人はいないと思う。
しかし、ラリー・バロウズはどうだろうか。
小秋元プロから、 「ロバート・キャパ賞を3度も受賞したすごいカメラマンなのです」 と解説されたとき、 今となってはあまり語られることの少ない ラリー・バロウズに再び光をあてたくなつた。

ラリー・バロウズが撮影し、 ライフ誌にリアルタイムに掲載された当時の写真を見ると、 今さらながらその迫力に圧倒される。

戦場の修羅場で、極限の緊張の中で戦闘地域に身を置くとき、 絶対に信頼のおける写真装置は、 ニコンとライカだけだつた。
フルメタルジャケットとは、 じつは3台のニコンFと2台のM型ライカで武装した フォトジャーナリストの正式装備のことを意味するのだつた。

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