KOGAKU SEIKI's Nippon camera

Nippon

「ニッポン」の開発(1941〜44)

技術後進国、日本の限界

森 亮資

軍部から開発命令

「ニッポン」は、 戦時中に陸海軍の要望で製作された国産3番目の高級35ミリ精密カメラであり、 光学精機社の熊谷源二 1)によって製作された(図 1 参照)。
その開発手法は、軍部の命令により特許、実用新案等を無視した開発だったために、 「カンノン」(キヤノン)や「レオタックス」 の開発時に見られた実用新案等回避の隘路に嵌まり込んだ改悪開発になることは無かったが、 逆に云えば、 そこに戦前、戦中期を通して模倣の域を出られなかった日本の高級35ミリ精密カメラ開発の限界、 ドイツと日本の当該技術水準の格差を、最も顕著に見ることが出来る。

図 1 「ニッポン」全体写真
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出典、朝日ソノラマ編『カメラレビュー58号』(2001)森亮資 「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p94

ライカの実用新案

「ニッポン」の距離計とビューファインダー部分では、 「Leica」と同じく2つある距離計窓の中間部分に、ビューファインダー部が位置しており、 実用新案を侵害している。 また、レンズを取り付けるマウント(基部)には距離計にレンズの前後運動を伝えるローラーがあり、 これもまた「Leica」と同一である(図 2 参照)。

さらに、「ニッポン」のカメラ上面外骨格部(一般に軍艦部と呼ばれる)を取り外し、 内部構造を見れば、距離計の光路を覆うハウジングケースに、 ビューファインダー光路を覆うハウジングケースが交錯し、 より明白に実用新案の侵害が行われているのが判る(図 4 参照)。

つまり皮肉にも「Leica」の完全な模倣である「ニッポン」は戦前、 戦中期に製作された国産の高級35ミリ精密カメラの中で、 「キヤノン」「レオタックス」と比較して最も性能、信頼性が高いものとなった。 オスカル・バルナック考案の『冩真器鏡玉ノ距離調節装置』2)の実用新案が、 いかに日本の「高級35ミリ精密カメラ」開発の大きな足枷となったのか、 ここに窺い知ることが出来るのである。

図 2 ニッポン
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図 3 Leica

図 2 および図 3 は、前掲書『カメラレビュー58号』「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p94 より。 図 2 の「ニッポン」の距離計とビューファインダー部分では、 図 3 の「Leica」と同じく2つある距離計窓の中間部分に、 ビューファインダー窓が位置しており、実用新案を侵害しているのが判る。
※ライカ写真の出典、中川一夫『ライカの歴史』(写真工業出版社、昭和54年)p38

図 4 ニッポンの内部構造
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図 4 の出典は前掲書『カメラレビュー58号』「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p98 より。 「ニッポン」のカメラ上面外骨格部(一般に軍艦部と呼ばれる)を取り外し、 内部構造を見れば、距離計の光路を覆うハウジングケースに、 ビューフアインダー光路を覆うハウジングケースが交錯し、 より明白に「Leica」の実用新案侵害が行われているのが判る。

光学精機社 熊谷源二

さて、「ニッポン」の開発は、精機光学キヤノンを退社し、 再び映画機械の開発製造を行っていた吉田五郎の協力で行われ 3)、 「原型機」「カンノン」開発と同じ下請け工場から部品調達が行われていたと思われる。 そのため「ニッポン」は吉田が「カンノン」以前に製作した 「Leica-DII」の模倣カメラと基本的に同じであるが、 さらに「Leica-DII」の後継機である「Leica-DIII」 に装備されたスローシャッター装置と同じものを取り入れ、 組み込んでいるのを特徴とする 4)。

「ニッポン」の製作者である熊谷源二は、 自製する「ニッポン」の総合的品質に自信を持ち、 日本におけるライカの代理店であったシュミット商会に持ち込んで、評価を求めているが、 その際に、常駐のドイツ人は非常な驚きと興味を示し、 日本において「Leica」の特許権を使える会社の設立を提案したと、熊谷は証言する 5)。

筆者は、2001年に『カメラレビュー58号』「戦争が生んだライカコピー機ニッポン」 6)において、 現存する「ニッポン」の、国内外に現存する機材の調査と、解体内部調査を含めた機構、 材質にわたる総合的調査を行ったが、機体の完成度は高く、使用材料の品質を除けば、 精度・工作共に、ほぼ「Leica」に匹敵、充分に代用出来るものであったという結論を得た。 また、熊谷によれば、1941年8月に軍による採用審査では 「艦政本部に持って行ったら、ボディはライカの代用として使えるが、 ズマールそっくりの国産レンズはダメだと言われた。 それでも海軍は採用してくれた」 7)
この熊谷の証言は、「ニッポン」が、日本国内における「Leica」のライセンス生産、 完全にライカに匹敵しないまでも、充用に耐える品質と可能性を示唆する反面、 当時の民需で製作された国産品のレンズは使える水準になかった事を意味している。

既に述べた如く、この時期にライカに匹敵するレンズを製造出来るのは、 日本光学以外に存在せず、日本光学の高級35ミリ精密カメラ用レンズは、 全てがキヤノン用であった 8)。 「ニッポン」に装備された国産の KOL-Xebec 5cm F2、 そして Sun-Xebec 5cm F2、(図 5 参照)2本の国産レンズは民間で市販されていたもので、 前述したように、2001年に筆者が行った一連の調査による実写試験では、 この2本の国産レンズは何れも「Leica」に装備されていた Leitz-Summar 5cm F2 の技術水準に達しておらず、 熊谷の証言を裏付ける結果になった 9) 。 「ニッポン」の開発においても、再びレンズの開発技術が隘路になっていたことを窺わせる。

図 5 KOL-Xebec 5cm F2、Sun-Xebec 5cm F2
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左端が「Leica」に装備されたドイツ製 Leitz-Summar 5cm F2、 中央と右端は「ニッポン」に装備された国産の KOL-Xebec 5cm F2、 そして Sun-Xebec 5cm F2の比較である。 この2本の国産レンズは民間で市販されていたもので、 2000年に筆者が行った調査による実写試験では、 この 2本の国産レンズは何れも Leitz-Summar 5cm F2の技術水準に達していない。 詳細は前掲書の『カメラレビュー58号』 「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p101参照。

技術後進国日本の限界

確かに「ニッポン」は、 戦前、戦中における国産の高級35ミリ精密カメラの中で最高の性能を持ち 「Leica」と同等であったが、それは特許、実用新案を無視した結果であり、 決してドイツと日本の当該技術水準を埋め合わせたものでは無かったのである。 むしろ、「キヤノン」「レオタックス」と比較すれば、もっとも安易な開発であり、 さらにレンズ製造技術の問題を積み残したままであったのは、 自ずと技術的な自立への道を閉ざした形での開発であったとも云うことが出来よう。

カメラボディに関して、 「キヤノン」「レオタックス」が「Leica」の実用新案回避の開発を行ったために、 「Leica」の模倣である「ニッポン」と比較して、大幅に性能・機能が劣った事実は、 前述したように戦前、戦中期を通して模倣の域を出られなかった 日本の高級35ミリ精密カメラ開発の限界、 ドイツと日本の当該技術水準の格差を如実にあらわす結果になった。

しかしレンズに目を移せば、「キヤノン」に装備されたニッコール 5cm F2は、 「ニッポン」に装備された KOL‐Xebec 5cm F2と比較して格段に優れ 10)、 「中身はドイツ製ではないか?」 11) と噂されたほどの性能を誇っていた。 いくらカメラボディの性能が優れていても、レンズの性能がカメラには、 最終的に優先されるのは言を待たない。
それ故に、やはり「ニッポン」は「キヤノン」には、及ばなかったのである。

−註釈‐

(1) 「ニッポン」を開発した熊谷源二は精機光学キヤノンに勤務(1936〜40年) したのち独立し、「Leica」の修理と改造を目的とする光学精機社を1940年に設立した。 1941年、軍から「Leica」の代替品を供給する事を目的に特許、 実用新案等を無視した模倣開発が指示され、同年8月に 10台ほどが完成し、 陸海軍の採用審査を受け「小型写真機二型」として採用された。 白井達夫著『幻のカメラを追って』(朝日ソノラマ・昭和57年)第2編 「ニッポンカメラ」p22〜p24

(2) オスカル・バルナック氏考案『冩真器鏡玉ノ距離調節装置』 (実用新案・201490号、出願、昭和7年7月19日、広告、昭和9年6月30日) (図14)、(図16)を参照。

(3) 朝日ソノラマ編『カメラレビュー61号』(2001) 内田一三著「カンノンからハンザキヤノンへ〜その開発の過程(3)」p114

(4) 「ニッポン」は基本的に「Leica-DII」の模倣であり、 吉田製作の「原型機」に近い存在と思われる。 その根拠については朝日ソノラマ編『カメラレビュー58号』(2001) 森亮資著「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」、 「ニッポン」はライカのどの型のコピーなのか? p96〜97参照。

(5) 白井達夫著『幻のカメラを追って』(朝日ソノラマ・昭和57年) 第2編「ニッポンカメラ」p26

(6) 「ニッポン」の構造、材質、工作精度に関する調査は 朝日ソノラマ編『カメラレビュー58号』(2001) 森亮資著「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p99〜p100

(7) 白井達夫著『幻のカメラを追って』(朝日ソノラマ・昭和57年)第2編 「ニッポンカメラ」p24ページ

(8) 「ニッポン」は軍用でありながら、 なぜ軍需技術によるレンズ開発の助力が受けられなかったのかは、未だ不明であるが、 熊谷の証言によれば「レンズだけはライツ社から買って取り付け、 陸軍には市中で入手できる国産レンズをそのまま利用して納入した」 前掲書、『カメラレビュー61号』(2001)内田一三著 「カンノンからハンザキヤノンへ〜その開発の過程(3)」p114

また、カメラボディはレンズに比較して損耗率が高く、 使用しているうちにレンズのほうが“余る”のが普通である。 「ニッポン」は、軍が所有していた「Leica」のカメラボディの代用品として、 非常にニッチな需要に応えて開発されたというのが筆者の考えで、 前に述べた国産レンズもまた、どうしても足りない分だけを補ったに過ぎなかったと、 併せて考えるのである。

(9) 前掲書『カメラレビュー58号』(2001) 「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p100〜p103

(10) 「ニッポン」に装備された KOL‐Xebec 5cm F2レンズの製造元については 前掲書『カメラレビュー58号』(2001) 「戦争が生んだライカコピー機、ニッポン」p100参照

(11) 上山早登著『精機光学キヤノンのすべて』(朝日ソノラマ・1990)p40

謝辞
「ニッポン」の記事掲載にあたり、このカメラの歴史的背景に詳しい 森 亮資氏より解説記事をいただきました。 どうもありがとうございました。あつく御礼申し上げます。



幻の夜間戦闘機月光搭載型ニッポン号

2005年8月のニコン研究会に登場したニッポン号。 この機体は、非常に数が少ない距離計非連動型のニッポン号戦中型です。 機体番号は No. 18122。 距離計の窓がなく、アイレット(吊環)も排除した潔さ。 シンプルで美しい姿をご覧ください。

距離計非連動型のニッポン号戦中型

ニッコール 5cm F4.5付きニッポン号

森亮資氏の論考を読んでいて、ぜひこのページで紹介して、 残しておきたい話がありましたので、以下に引用させていただきました。

ここでは少し、距離計非連動型「ニッポン」に関する余談をしたいと思う。 距離計非連動型「ニッポン」は、戦時中に海軍の夜間戦闘機「月光」に搭載されたレーダー (海軍では電波探信儀と言い、陸軍では電波探知儀と言った) の付属品としてオシロスコープ画面撮影用に使用したと言われている。 真偽は別にしても、確かに小型軽量の 35mmカメラは 重量が厳しく制限される戦闘機の搭載には妥当であったと考えられる。

では、夜間戦闘機「月光」に搭載されたレーダーとは、どのような物だったのか? 夜間戦闘機「月光」に搭載されたレーダーは、FDー2(18試空6号無線電信機)、 またはタキ2号と呼ばれる物で、 日本初の夜間戦闘機搭載の迎撃用射撃レーダーとして空技廠が設計、 昭和19年8月に完成し、生産は東芝が行なった。

クラシックカメラ専科 No. 58(2001年3月25日発行)
ライカブック '01 ライカ研究 Page 98
戦争が生んだライカ・コピー機「ニッポン(Nippon)」森 亮資 より。

底蓋を外したニッポン

コンクールコンディションのニッコール 5cm F4.5 Nr. 50516

Nippon KOGAKU SEIKI

必要な機能だけ。一切の装飾性を排除。 究極の用の美を誇る日本製軍用カメラ。 夜間戦闘機「月光」の搭乗員の手にあった 35ミリ小型写真機。 シンプルと言えばシンプル。簡素と言えば簡素。 しかしその佇まいの根底にある気迫とか覚悟が違う。

カメラコレクターの王道を驀進し、 台数ではなく何トンと重量でコレクションの規模を語り、 「ライカはもう一通り集めた」と言う方には、 もう「ニッポン」しかないでしょう。 距離計非連動型のニッポン号戦中型の現存数は 1桁、数台とお聞きしました。

ニコン大井製作所

2010年 1月。 株式会社ニコンの大井製作所で歴史資料室主催による勉強会が開催されました。 テーブルの上にはいくつかの歴史的写真機とレンズが並びました。 ニッポン号を鑑定していただいた時の姿をご覧ください。

歴史的写真機と歴史的レンズ

本物のオールド・ニッコール

ニッポン号

光学精機製

あとがき

2005年夏のことでした。 当時、立命館大学の若手研究者だった森亮資さんから、 文頭に掲げた論考をWORDの文書で提供いただきました。 すぐにウェブで記事化しました。
2022年晩秋。再び読み返してみました。 写真が横300ピクセル程で今となっては極めて小さい。 画像品質を高めるために、WORD文書のオリジナル原板から、 最新技術を使って写真を大きなサイズで取り出し直しました。 さっそく記事に反映しました。

本記事後半はこの時に新しく作りました。 夜間戦闘機「月光」に搭載されたレーダーについて調べてみました。 サイト「日本帝国陸海軍電探開発史」が非常に詳しい。 レーダーのブラウン管画面を35mm判小型カメラで撮影したという案件については、 記述を見い出せませんでしたが、時代の技術を見直すことができました。

軍用小型カメラ「ニッポン号」の背景については、引き続き追っていきたいと思います。 森亮資さんの研究は、まだまだこの続きがあったはずだと思うのであります。

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